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留学生部

2014.03.18

真の国際理解をめざし、多くの留学生が入学

満洲国派遣留学生42名留学 1934(昭和9)年5月21日

「地球はわれらの故郷である」という言葉は、1949(昭和24)年、小原國芳の友人でもあるヴェルナー・チンメルマン博士が玉川学園を訪れた際のメッセージである。今、その言葉は、玉川の教育12信条の一つである「国際教育」について語るときの言葉となっている。国際教育の重要性はあらゆる方面で叫ばれているが、玉川学園においては80年以上前の設立当時から国際化を意識し、世界へと目を向けていた。小原は常々、国際教育の重要性を説いてきた。1963(昭和38)年に出版された『玉川教育』では、以下のように述べている。
「私は愛国心を強調します。愛する値打があるとかないとか。そもそも愛国心とはそんなものではないでしょう! 同じ郷土に生れ、同じ国語をしゃべり、風俗習慣を同じくするものの止むに止まれぬ自然の情でしょう! 偏狭な愛国心はこまりものですが、愛国心の教育をなんではばかる必要がありましょう。と同時に、私は人類愛を、国際理解を、心から叫びます。安価な外国崇拝ではないのです。どこの国の人々とも、対等に、堂々と、仲よくつきあえ、手を握りあえる日本人にしたいのです。」
そのような小原の、そして玉川学園の想いを具現化したのが、学園創立当初に設置された留学生部の存在である。

留学生部は、主に海外の若い世代を受け入れ、玉川学園で学んでもらうことを目的として、戦前、玉川学園に存在した部であった。創立当初から数名の生徒を海外から受け入れてはいたが、玉川学園創立から5年が経った1934(昭和9)年4月に留学生部を設置。本格的に留学生を受け入れる体制が整ったことで、以降、多くの生徒が海外から玉川学園へとやって来た。この年の5月21日には、当時の満洲国から留学生四十余名を集めての入学式が、学園内の講堂で行われた。小原は祝辞で「国民と国民の外交時代が来た」と、留学生に対する期待を述べ、「進取の気持ちを持って事に臨むことの重要性」などの訓示を行った。
この留学生部は「日本語および日本の風習を体験すると共に、労作学習を通じ特に人格的、文化的陶冶を受けること」を教育目標とし、満洲国籍の物の場合は満洲国初級中学校卒業以上か、同等以上の有資格者を対象に、1年間を修業年限としていた。そして修了した生徒は、東京工業大学、第一高等学校(現:東京大学教養学部)、東京文理科大学(現:筑波大学)、広島文理科大学(現:広島大学)、慶應義塾大学、早稲田大学、東京農科大学、北海道大学、鉄道教練所などを受験し進学していた。玉川教育を受けたい希望者に対しては玉川塾(商科、拓殖、教育など)の専門部、女子高等部、中学部などへの編入も可能としていた。

留学生は玉川学園で日本語、日本史、地理、英語、数学など、日本人の生徒と共にほぼ変わらぬ内容を学んだ。また教室での授業だけでなく、師弟同行を柱とする塾での生活を送り、労作に重点を置いた教育を受けた。留学生は日本人生徒と共に玉川の丘で寝食を共にしながら学び、祈り、過ごした。小原國芳は、何よりも、母国の異なる相手のことを深く理解する機会にしたいとの思いがあった。
こうした学園内での授業や労作に加え、夏には千葉県の富浦へも留学生たちを連れて行った。この活動は留学生部発足の年から行われたが、翌年の1935(昭和10)年には満洲国大使館が主催して、日本で学んでいる満洲からの留学生が富浦に集まることになるのだが、そこでも玉川学園で学ぶ留学生がリーダー的な役割を担うこととなった。
そして留学生部で学んだ生徒たちは1年間の修業期間を終えた後に日本国内の大学などに進学。その後は多くの者が自国に戻り、指導者として活躍することとなる。留学生部は1936(昭和11)年には79名の卒業生を輩出したが、1937(昭和12)年度以降は留学生部としての記録は残されていない。玉川学園における留学生部の活動期間は決して長いものではなかったが、そこには「アジアの外交は玉川の丘より」を提唱する小原國芳の想いが結実していたのではないだろうか。1942(昭和17)年、中学部の生徒は406名で、アジアからの留学生だけで25名が在籍していた。

後年、小原國芳は前出の『玉川教育』において、以下のようにも述べている。
「全世界を友とし、堂々とツキあえる人物を創る教育―これが新日本の教育の大きな眼目でなければなりませぬ。特に、私はアジア十五億の恵まれざる仲間のために、さらにアフリカの数億を加えた我々お互い有色人種のために、たまらぬ使命を感じます。日本の五百の大学、四千の高等学校、せめて一校一人ずつ、アジア・アフリカの青少年を招いてもらえませぬか。アジア十カ国から、一人五年ずつとして一国九十人は来られるでしょう。選ばれてくる人たちは、いずれは、その国の中でも、リーダーとなり、大きな仕事もし、重要な地位にもつくでしょう。日本はアジアで生きなければならぬ運命にあるのです。アジアの弟たちの手を取って、ここから親切をさせてもらいましょう。世界平和への道は、いろいろありましょう。お互いの出来る道は、子供を通して、世界中が手をつなぎ合うことだと思います。ホントに、もっともっと、広い、高い、大切なものに目を開こうではありませぬか」。


参考文献
小原國芳編『教育日本』第63号 玉川学園出版部 1935
玉川学園編『玉川教育—1963年版』玉川大学出版部 1963
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園50年史(写真編)』 玉川学園 1980
『玉川学園留学生部要覧』玉川学園 1934

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