玉川大学・玉川学園Webサイト
IEサポート終了のお知らせ

玉川大学・玉川学園webサイトTOPページリニューアルに伴い、Microsoft 社の Internet Explorer(以下、IE)のサポートを終了いたしました。本学園が運営するサイトをIEで閲覧した場合正しく表示されない恐れがございます。
皆様にはご不便をおかけしますが、別のブラウザを利用しての閲覧をお願いいたします。

米国教育使節団

2014.03.18

世界の近代教育と玉川の新教育の出逢い

第二次世界大戦が終結し、敗戦国となった日本には多くのものが入ってきた。それはモノに限らず、文化や社会制度など、実に多岐にわたり、戦後の日本は大きく変化し、そして急速に国際社会で成長を遂げていくことになる。そうしたものの一つに、教育があった。
連合国軍最高司令部(GHQ)の最高司令官ダグラス・マッカーサーは、来日間もない1945(昭和20)年10月に「五大改革」と呼ばれる指令を日本政府に対して命じた。それは、

  1. 婦人の解放
  2. 労働組合の奨励
  3. 秘密警察の撤廃
  4. 経済の民主化
  5. 教育の自由化
であった。この「教育の自由化」が、戦後の教育改革の第一歩となる。第二次世界大戦以前の日本では、勅令により学校制度は学校の種類によって定められており、統一された学校体系が成されていなかった。教育勅語を柱とする日本史、地理といった科目には、とりわけ国定教科書の最終期となる4期・5期の内容には軍国主義的な側面が多く見られた。そこで連合国軍最高司令部はこうした状況を改善し、占領下日本の教育を再建するため、アメリカ政府に日本の教育事情の調査研究を要請。これにより、アメリカから教育使節団が日本を訪れることになる。

米国教育使節団員 1946(昭和21)年3月26日

1946(昭和21)年3月に、総勢27名からなる第一次教育使節団が来日。約1ヶ月という短い視察期間の中でもさまざまな教育施設を訪れた。そして彼らの中の数名が、玉川学園を訪れた。
そのメンバーはミシガン大学教授トロウ博士、中央ミズーリ州立教員養成大学学長ディーマー博士、そしてスタンフォード大学教授ヒルガード博士。彼らの玉川学園訪問は、視察が終了する直前の3月26日のことであった。
なぜ教育使節団のメンバーが玉川学園を訪れることとなったのだろうか。かつて玉川大学文学部で教鞭を執っていた高橋靖直教授は、終戦当時に何度か学園を訪れたことがあるバーナード陸軍大尉がこの訪問を実現させたのではないかと述懐している。当時の使節団はいくつかの委員会に分かれており、「授業および教師養成教育」を担当している第二委員会の責任者がこのバーナード陸軍大尉であり、学園を訪問した3人はこの第二委員会のメンバーだったのだ。また「3人が玉川を訪ねたのは、ジョン・デューイの児童中心主義的なプラグマチズムの教育思想の影響を受けたと思われる私立学校の教育実践を、直接見てみたいということが第一の理由ではなかったかと思われる」とも高橋教授は語っている。

一方で、視察を受け入れる側であった玉川学園はどのような状況であっただろうか。学園の創立者である小原國芳は「教育者を冷遇し、試験と点数と、詰め込み棒暗記と、肩書と出世とのみ重視した日本の教育が、自由と大胆と、創造と進取と、プロジェクトと個性尊重とを大事にしたアメリカの教育に全く負けた」と言い切っていた。けれども小原にとって、この負けは新たなる出発をも意味していた。それまで誤解と曲解の中で苦しみながら進めてきた新教育が新しい時代を迎えて、教育立国日本を建設しようという意気が学園中にみなぎっていた。それは日本の教育をアメリカのそれに置き換えようという、単純なことではない。小原はアメリカの教育者に対して「大和の国の真の姿を理解してほしい。和平の民情にも接してほしい。日本の文化も研究してほしい」と常々思っていたのである。そんな小原にとって、アメリカの教育使節団の訪問はまさに自らの教育を伝える、絶好の機会であったのだろう。
視察の当日、使節団のメンバーたちは子どもたちの自学を中心とした学習、労作、芸能教育など玉川教育の成果を熱心に参観。小原の教育内容を高く評価したという。

教育使節団は玉川学園を訪れた後に視察を終え、直後の3月31日にはマッカーサーに報告書を提出。翌4月1日は日本を離れている。報告書の作成過程や日程から考えると、3人の使節団による学園訪問が報告書の内容に決定的な意味を持ったとは考えにくい。けれども玉川の教育にとっては歴史的な意義があっただろう。小原は博士たちとの質疑応答や意見交換を通じて、「新教育30年のイバラの道が一遍に焼き払われるような気がします」と後日記している。
そして視察団にとっても、この玉川学園訪問は実は意義のあるものだった。報告書の中で視察団は、旧制度の問題点について以下のように報告した。

The situation has been severely criticized by informed Japanese. However, in spite of all handicaps, not a few teachers have managed to attain an admirable degree of flexibility in their teaching. Singly and in groups leaders of education in Japan have striven to break away from paralyzing restrictions ―all honor to these pioneers!


「かような状態は良識ある日本人によってきびしく批判されている。しかしながら、あらゆる不利な条件の下にあるにもかかわらず、その授業振りに非常に美事な柔軟性を持たせ得た教師たちが少なからずあった。独力でまた集団を作って、日本の教育の指導者たちは活動力をうばいとる束縛から脱れ出ようと努力している。これらの先導者たちに栄誉あれ!」

後日、使節団員の一人であるホール氏より、最後の一文について「この文句は君のことを書いたのだよ」と小原は言われたそうである。
この報告書は6年制小学校と3年制下級中学校における無月謝制、男女共学制、希望者全員入学制の実現などを勧告した。また修身・歴史教科書の改訂、保健体育や職業教育の重視、ローマ字の採用、教育行政の地方分権化、教師養成の水準向上、成人教育の充実、高等教育の機会拡大などについても提案。戦後日本の教育改革に重要な影響を与えた。
玉川学園も、この報告書によって生まれた学校教育法に則り、6・3・3・4制を導入するなどさまざまな変革があった。だが、連合国が示した生徒の創造性や個性を尊重し伸ばしていく教育は、従来の玉川学園の教育そのものであり、その意味では学園の根本は何ら変わらなかった。

参考文献

小原國芳編『全人』4月号 玉川大学出版部 1946
玉川学園編『玉川教育: 玉川学園三十年』 玉川学園 1960
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園50年史』 玉川学園 1980
教科教育百年史編集委員会編『原典対訳 米国教育使節団報告書』建帛社 1986
玉川教育研究所編『全人教育』第520号 玉川出版部 1991

シェアする