玉川学園とスキー
玉川学園のスキー学校は、1959(昭和34)年に開始された。その約30年前、「同じ習うなら、世界で一番スキーのうまい人に教わりたい」という生徒の一言から、玉川学園のスキーの歴史がスタートした。
1.玉川学園とスキーとの出会い
玉川学園では、毎年、スキー学校を実施している。初めてスキー学校が開催されたのが1959(昭和34)年。それから約60年、今年も4、5年生のスキー学校が1月上旬に、7年生(中学1年生)のスキー学校が2月上旬に、それぞれ開催された。
玉川学園とスキーとの出会いは?『全人教育』162号(玉川大学出版部発行)に、「全人教育としてのスキー」というタイトルで小原國芳の記述がある。
上野発。夜行。行く先は福島県の沼尻。眼がさめると川桁駅!すごい吹雪!オーケストラそのままの乱舞の花ビラ。窓ガラスへの吹きつけ。否なタタキつけ。ピューピューとスゴい音さえ伴って。森も、電柱も、煙突も、家々も雪と戦っとる。
「これだ、これ!これに東京の子供たちをブッつけて鍛えてやるんだ」
熊襲の裔孫の私。健児の社で、サツマの颱風で、オヤジのスパルタ流の硬教育で鍛えられた私には相通ずるものであるのです。
愉快な三日間を過ごしました。二月には学校全部をあげてツレて行きました。
2月に再び訪れた時のことが、小原國芳著『全人教育論』(玉川大学出版部発行)には次のように記されている。
二月には学生全部を引きつれて出かけました。二月となると、ガラ空きらしいのです。ヤドの人達も喜んでくれましたし。二月には全山殆んど、私たちだけで占領出来ての練習!全くの銀世界!宗教的というか、芸術的というか、見る限りの真っ白さ。ケガレのない聖浄さ!偉大な道徳教育だ、宗教教育だと心にシミることでした。
第一日目は私が、一番上手でした。第二日目には私が一番下手になりました。子供たちの上達の早いことには全く驚きました。毎年毎年、方々へつれて行きました。
小原國芳著『少年たちに告ぐ(九)』(小原國芳編『學園日記』9號 玉川學園出版部 所収)にはこのような記述も残っている。
吾々は、實に、此のスキーを通して、眞の人間精神を、ホントの敎育をも會得したいのである。
2.シュナイダーの招聘とスキー教室
実は玉川学園のスキー指導は、さらにずっと古く、1930(昭和5)年まで遡る。その年、当時“スキーの神様”と呼ばれていたハンネス・シュナイダーを招聘し、初のスキー教室が開かれた。小原國芳がシュナイダーの存在を知ったのは、中学部の生徒の一人が言ったひと言がきっかけだった。その時のやり取りが『シー・ハイル―オーストリア・スキー―』(玉川大学出版部発行)に掲載された小原國芳著『跋にかえて―私のスキー小史-』に次のように記されている。
昭和五年の正月です。午前のスキーをすまして、おフロを浴びて、おコタの中の出来事です。
「先生、同じ習うなら、世界一に教わりたいなァ」と、誰君でしたろう。
(略)
「世界一」といわれると、私の気持はたまらない。
「世界一って、だあれ?」
「先生、知らないの?オーストリア、サンクト・アントンのハンネス・シュナイダーですよ」
「そうか、それじゃ、呼んで上げよう」
「ホント?」「ウァー、いいなァ」「ステキ!」と、みなが大変な喜び、子供らに喜んでもらえるということが、万事、私の教育推進力なのです。
どんなことでも、一流のものを子供たちに触れさせることに意義を感じていた國芳は、即座にシュナイダーの招聘を決め、正確な宛先も分からないまま、世界一の有名人だから「Hannes Schneider Sankt Anton Austria」で届くだろうと電報を打つ。
「日本にスキー教授に来てくれ。往復一等。三週間滞在。一週間見物。滞在費一切負担。謝礼一万円。東京、玉川学園長 小原國芳」
当時の1万円が現在の価値にしていくらぐらいになるかは定かではないが、小原國芳著『全人教育論』(玉川大学出版部発行)には次のように記されている
さあ、大変だ、金は一文もないのです。全くの背水の陣だったのです。一万円といえば、今なら二千万円か三千万円です。
國芳は頭を抱えながらも資金繰りに奔走。さまざまな人から借金を重ね、1万円を何とか工面し、シュナイダーの来日を実現させた。
1930年3月に来日したシュナイダーは、本学と成城学園の生徒に対し、池の平で講習会を行った。当時を振り返って國芳は著書『教育一路』(玉川大学出版部発行)に次のように記述している。
山のような借金が出来ましたが、生徒たちが「世界一」を迎えた喜びにひたっている姿に、私は救われました。
シュナイダーは1930年に来日した際に、スキー連盟の要請も受け、妙高、沼尻、菅平、池ノ平、高田、秋田、山形、北海道、東京など各地で講習会や講演会を開催。シュナイダーの素晴らしい技術は、観衆を驚嘆させた。シュナイダーは日本に初めてスチール・エッジを持ち込んだ。以来、日本のアルペンスキーは一変し、オーストリアのアールベルク式に大きく変わった。現在でもシュナイダーが真一文字に滑降した野沢温泉の急斜面には、「シュナイダー・スロープ」の名前が残されている。シュナイダーがもたらした技術は、その後発展をつづけ、日本のスキーを飛躍的に進化させた。
日本のスキーの歴史を塗り替えたシュナイダーを招聘してから33年後の1963(昭和38)年2月に、再び玉川学園と成城学園が中心となって、“第二のシュナイダー”、あるいは“オーストリア・スキーの父”と言われたシュテファン・クルッケンハウザーを招聘した。
3.シーハイル
本学のスキー学校では、練習の始まりと終わりに皆で集まり、シュナイダーにちなんで、ストックを高く掲げ「シーハイル(ドイツ語で「スキー万歳!」の意)」の掛け声を交わすことが今でも恒例となっている。玉川キャンパスには、ハンネス・シュナイダーの銅像も建てられており、アルペンスキーの父と玉川学園との絆を今に伝えている。
4.スキー学校
2017年度の4年生のスキー学校を例として、実施内容を紹介する。「ハンネス・シュナイダー スキー学校」という名称で、2018年1月5日から9日までの5日間、志賀高原にて5年生と一緒に実施。宿泊はホテル一之瀬。
- 1日目・・・
朝、玉川学園をバス7台で出発。午後、スキー場到着後、靴合わせ、スキー合わせ、ゲレンデへの基本的な動きのマスターの後、入浴、夕食。夕食後、コンベンションホールにて開校式。その後、クラスミーティング。
- 2日目・・・
朝食後、スキーの準備を行って講習開始。2時間の講習の後、昼食。昼食後、再び2時間の講習。講習終了後、入浴、夕食、クラスミーティング。
- 3日目・・・
2日目と同様のスケジュール。ただし、クラスミーティングの前にスキー班別ミーティング。
- 4日目・・・
2日目と同様のスケジュール。ただし、クラスミーティングの前にコンベションホールにて閉講式。
- 5日目・・・
朝食後、荷物などの移動やバスへの詰め込み後、バスでスキー場を出発。午後、玉川学園に到着。
関連サイト
参考文献
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園50年史(写真編)』 玉川学園 1980年
- 小原國芳著『全人教育論』 玉川大学出版部 1976年
- 小原哲郎編『シー・ハイル――オーストリア・スキー――』 玉川大学出版部 1962年
- 小原國芳著『少年たちに告ぐ(九)』(小原國芳編『學園日記』9號 玉川學園出版部 1930年 所収)
- 長岡忠一著『日本スキー事始め』ベースボール・マガジン社 1989年
- 小原國芳監修『全人教育』162号 玉川大学出版部 1963年
- 小原國芳監修『全人教育』198号 玉川大学出版部 1966年
- 小原國芳監修『全人教育』210号 玉川大学出版部 1967年
- 小原國芳監修『全人教育』283号 玉川大学出版部 1973年
- 小原哲郎監修『全人教育』489号 玉川大学出版部 1989年
- 小原哲郎監修『全人教育』549号 玉川大学出版部 1994年
- 小原哲郎監修『全人教育』573号 玉川大学出版部 1996年
- 小原哲郎監修『全人教育』585号 玉川大学出版部 1997年
- 小原芳明監修『全人教育』609号 玉川大学出版部 1999年
- 小原芳明監修『全人教育』621号 玉川大学出版部 2000年
- 小原芳明監修『全人』644号 玉川大学出版部 2002年
- 小原芳明監修『全人』748号 玉川大学出版部 2011年
- 小原芳明監修『全人』792号 玉川大学出版部 2015年
- 小原芳明監修『全人』800号 玉川大学出版部 2015年
- 玉川学園スキー学校実施要領 玉川学園 2017年度