コスモス祭
1963(昭和38)年12月19日、初めての大学文化祭が開催された。4年後の1967(昭和42)年からは、大学文化祭をコスモス祭と呼ぶようになった。1997(平成9)年からは収穫祭と同じ日に実施されるようになり、課外活動の展示や発表が中心であったこれまでの内容に、各学部のゼミを中心とした展示が加わり、研究発表の場としての色彩がさらに強まった。
1.大学文化祭を開催
現在コスモス祭として開催されている大学祭は、当初、大学文化祭という名称であった。初めての大学文化祭の開催は、1963(昭和38)年12月19日。当時、大学は前年に工学部(機械工学科、電子工学科、経営工学科)が開設され、文学部、農学部とあわせて3学部体制となっていた。農学部には収穫祭があり、この大学文化祭は文学部を中心に農学部、工学部の有志が参加して、文化系クラブが主催となって行われた。ただし、この年度の文科系のクラブはへき地教育研究会、地理研究会、聖書研究会、赤十字奉仕団、児童文化研究会、海外農業研究会、美術部、演劇研究会、ワンダーフォーゲル部、合唱団など10部ほどであった。なお、この年度の卒業生は140名で、現在と比べるとかなり小規模な大学祭であった。

初めての大学文化祭は学生の要望により開催されることとなったが、開催には反対の意見もあった。そのことが玉川大学出版部発行の月刊誌『全人』第801号の「故きを温ねて」(No.30)に次のように記述されている。
「小原先生喜寿のお祝いに、大学生たちは活動の成果を知らせたかった」と、文化祭常任委員会の初代議長であった米山弘(当時文学部教育学科3年、元文学部教授)は語る。しかし、文化祭を開催したいという学生たちの活動に対して、危惧する動きが学内に少なからず見られた。当時、大学生による学生運動が全国的に広がっていたからである。
これに対して清水清学生部長(当時)は「学長喜寿の御慶びに対する全学生の祝意がこめられている」と学生たちを応援。研究発表の会場は文学部校舎(現大学2号館)と礼拝堂、塾食堂(現りんどう食堂)の3か所であった。
※新耐震基準との関係で、現在、大学2号館は使用していない。りんどう食堂は解体された。
1963(昭和38)年12月19日には前夜祭を開催。大グラウンドの中央に高々と焚き木が積まれ、それを囲んで小原國芳学長、清水清学生部長や教職員、学生が円陣を作った。やがてスタンドの中央から学生が運んできた松明が國芳の手に渡る。そして、点火。火は高々と燃えあがった。学長、文学部長の挨拶の後、合唱や余興が続いた。小原節やそうらん節の民謡を踊る際には、その輪に國芳も加わった。こうして前夜祭は盛会のうちに午後7時頃に終了した。

國芳の隣が学生部長の清水清教授
翌20日は、2つの会場に分かれて大学文化祭が行われた。文学部校舎(後の文学部第2校舎、現在の大学2号館)では、各部や各種の展示発表を開催。文学部教育学科2年生による小原教育の研究部会では、國芳の喜寿に際して新教育の苦闘の足跡をたどり、写真、手紙、書、ノート、著述、辞令、表彰状などを展示。特に國芳の同窓の方々からの思い出の手紙や國芳が若き日に書いた論文など、なかなか見ることができない貴重な資料が展示されていた。展示室の間には模擬店や喫茶室が置かれた。礼拝堂では合唱、オーケストラ、演劇の公演をはじめ、地理研究会や聖書研究会の研究発表も行われた。

2.玉川大学文化祭・農学部収穫祭として開催
翌年は文化祭開催の記録は残っていない。1965(昭和40)年には学校行事として大学文化祭が開催された。この大学文化祭を第1回として位置付け、以後現在まで毎年実施されている。

1967(昭和42)年は、農学部収穫祭と合同で、11月2日、3日、4日の3日間開催された。初日、午前9時から開会式。清水清学生部長の開会宣言の後、小原國芳学長がテープカット。その後、新校舎完成の農学部にて開館式を行った。
豊作を祈って神樂を舞う農学部生(収穫祭)
3.コスモス祭という名称に変更

大学文化祭は1967(昭和42)年からコスモス祭(コスモス・フェアー)と呼ばれるようになった。コスモスとは、ギリシャ語で整美、秩序、調和。またこの言葉は、宇宙の広がりや、秋に咲く可憐なコスモスの花の姿もイメージする。
コスモス祭は、やがて直属会(管弦楽団、合唱団、演劇部など)、体育会(スキー部、陸上競技部、水泳部など)、研究会(生物自然研究部、E.S.S.、自動車工学研究部など)、同好会(茶道部、写真部、ユースホステル部など)といった数多くのクラブの日頃の活動成果を発表する場として、11月上旬に開催された。
4.コスモス祭と収穫祭を合同開催に
1997(平成9)年より、農学部の研究室を中心に研究成果を発表し、秋の実りを神に感謝してきた「収穫祭」と「コスモス祭」を、「玉川の秋」として11月下旬に合同開催することとなった。これに文学部、農学部、工学部、女子短期大学の学部展が加わり、文字通り全学あげての大学祭となった。
「玉川の秋’97」の開会を翌日にひかえた11月22日の午後に、農学部では小原芳明学長、小原哲郎名誉総長をはじめ多数の来賓の方々の参列のもと収穫祭開会式として「開会の儀」を行った。農場太鼓の後、学生実行委員長が開会を宣言。祝詞奏上と玉串奉奠、小原芳明学長の祝辞と続いた。終了後、小学部、中学部、高等部の児童、生徒たちが学部展示を見学。
翌23日午前9時30分より大体育館において小原芳明学長、各学部長、コスモス祭・収穫祭の関係者が一堂に会し開会式が行われた。記念すべき全学あげての大学祭がスタートした。23日、24日の2日間にわたって、文学部第3校舎(現在の本部棟)を主会場としてクラブやサークルの展示発表、各校舎にて学部展が行われた。


5.多彩なプログラムや装飾
コスモス祭は、キャンパス全体を使って実施。盛りだくさんの内容で見学者を迎えている。






それぞれの年により異なるが、展示発表や音楽・演劇などの公演、運動部の試合や演武、前夜祭、中夜祭、後夜祭、本部企画、有名人を招いての講演や演奏など多彩なプログラムが組まれた。

(昭和41年)

(昭和50年)




因みに講演や演奏、トークショーに招いた有名人には、例えば、子門真人、佐々木信也、野坂昭如、浅利慶太、大橋純子、小林明子、スターダストレビュー、宮本亜門、赤川次郎、西岡徳馬、藤田明二、江戸家猫八(4代目)、小林克也、森川美穂、オードリー、林家木久蔵(2代目)、中村蒼、DAIGO、バナナマン、パックン・マックン、志田未来、千葉雄大、桐山漣、川口春奈などの方々がいる。
6.2017(平成29)年のコスモス祭
2017(平成29)年のコスモス祭は11月11日(土)、12日(日)の両日、文学部展、農学部収穫祭、工学部テクノフェスタ、経営学部展、教育学部展、芸術学部展、リベラルアーツ学部展、観光学部展、大学院展、研究所展、課外活動展、学生環境保全委員会やその他団体の展示や発表、さらに本部企画、模擬店など盛りだくさんの内容で行われた。展示参加団体は146団体にのぼり、模擬店数は74、2日間で延べ16,821人の来場者があった。


7.写真で見るコスモス祭
①前夜祭


②開会式





③課外活動展












④学部展示


















⑤模擬店








⑥後夜祭






参考文献
小原國芳監修『全人教育』 玉川大学出版部
第174号(1964年)、第208号(1966年)、第220号(1967年)、
第232号(1968年)、第233号(1969年)、第280号(1972年)、
第292号(1973年)、第304号(1974年)、第330号(1976年)、
第345号(1977年)
小原哲郎監修『全人教育』 玉川大学出版部
第360号(1978年)、第374号(1979年)、第413号(1982年)、
第426号(1983年)、第438号(1984年)、第462号(1986年)、
第497号(1989年)、第498号(1989年)、第534号(1992年)、
第570号(1995年)
小原芳明監修『全人教育』 玉川大学出版部
第594号(1997年)、第618号(1999年)
小原芳明監修『ZENJIN』 玉川大学出版部
第642号(2001年)
小原芳明監修『全人』 玉川大学出版部
第666号(2004年)、第690号(2006年)、第702号(2007年)、
第713号(2008年)、第724号(2009年)、第757号(2012年)、
第768号(2013年)、第801号(2016年)、第823号(2018年)
白柳弘幸「故きを温ねて」(『全人』第801号 玉川大学出版部 2016年 に所収)