写真で見る玉川学園の歴史④ 1941(昭和16)年~1945(昭和20)年
2019.09.03
勤労奉仕や勤労動員、外部団体の学園内疎開、児童・生徒たちの疎開など戦争の影響が教育にも影を落とす。そして終戦。ただちに教育活動を再開。さらに第1回新生日本教育研究会を開催するとともに、小原國芳は日本全国への教育行脚を再開した。
1.1941(昭和16)年
月 | 日 | 出来事 |
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3 | 9~13 | 土浦、日立方面に音楽、体操公演旅行 |
22 | 日比谷公会堂において舞踊発表会を開催。合唱も参加 | |
4 | 小学部、「初等部」と改称 | |
5 | 7・8 | 日比谷公会堂にて開催されたローゼンシュトック指揮の新交響楽団(現在のNHK交響楽団)臨時公演の「第九交響曲」「合唱幻想曲」に玉川学園混声合唱団が出演 |
22 | 広島、九州方面に音楽、体操公演旅行(~6月6日) | |
27 | 全校模型飛行機大会を開催 | |
6 | 18 | 北京より教師50数名が来園 |
7 | 11 | 1932年に日本人初のノーベル物理学賞の候補に挙がった本多光太郎博士が来園して講話 |
9 | 5 | 落下傘滑降台が完成、試験降下を実施。9月20日に落下傘滑降台の開場式を開催 |
10~19 | 東京陸軍航空学校の士官15名と下士官15名の合計30名が、10日間泊まり込みで玉川体操の講習と訓練を受けるために来園 | |
20 | 海洋少年団旗授与式 | |
11 | 9 | 学徒奉公市民厚生音楽会に出演 |
12~21 | 中学部3年生以上、相模原造兵廠へ勤労奉仕 | |
12 | 1 | 宇都宮陸軍航空学校にて体操公演 |
5~15 | 宇都宮陸軍航空学校から2名が10日間、東京陸軍航空学校から35名が5日間、玉川体操の訓練を受けるために来園。近くの士官学校からも4名が研究生として参加 |

玉川体操の訓練を受ける


関連リンク
2.1942(昭和17)年
月 | 日 | 出来事 |
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3 | 興亜工業大学校舎上棟式 | |
25・26 | 日比谷公会堂にて開催された山田和男(1968年に山田一雄と改名)指揮の新交響楽団演奏会の「荘厳ミサ」に出演。日本人のみによる最初の演奏として、日本音楽史上に残る上演 | |
5 | 15 | 興亜工業大学(現在の千葉工業大学)設置認可 |
6 | 8 | 興亜工業大学開校。開校式と入学式を挙行。航空学科、冶金学科、工業経営学科の3科構成。第1回入学生は160名 |
7 | 3~6 | 中等部生による3泊4日の富士山麓野外演習を実施 |
8 | 13~20 | 橿原神宮にて一週間にわたって行われた体操指導者錬成会に、大阪府社会教育部からの依頼により男女40名を派遣。大阪青少年指導者男女約600名と橿原神宮の八紘寮に一週間泊まり込みで修行をしながら、丁抹(デンマーク)体操とコーラス講習を指導。この体操指導者錬成会終了後、大阪の堺を皮切りに和歌山県の粉河と岐阜市にて公演 |
9 | 情報局委嘱海外向け短編文化映画「日本の唄」(アイウエオの歌、愛国の花、吾等の団結)の撮影 | |
25 | 全校模型飛行機大会を開催 | |
10 | 3~7 | 大毎からの招待を受けて男女約50名を派遣。2日に玉川学園を出発し、3日は名古屋の瑞穂公園において、4日は内宮参拝後に西宮球場において、強民健兵体操大会に参加して体操の模範演技を披露。その後35名は大阪の豊中にて実演。一方男子10名と女子6名は二組に分かれて、5日大阪の組は6日は神戸で、5日神戸の組は6日は大阪で練習会を実施 |
23~26 | 興亜工業大学予科生、富士山麓野外演習 | |
12 | 26・27 | 日比谷公会堂にて開催された山田和男指揮の日本交響楽団臨時演奏会の「第九交響曲」に出演 |


戦後は、玉川工業専門学校校舎、
農学部校舎、本部として使用



関連リンク
3.1943(昭和18)年
月 | 日 | 出来事 |
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3 | 3 | 名古屋陸軍幼年学校教官6名が体操講習を受けるため来園 |
19 | 吹田市にて体操・音楽公演会 | |
23 25~28 |
23日に名古屋市公会堂で2回、25~28日に大阪の朝日会館で6回、日本交響楽団建艦資金献納音楽会の「第九交響曲」に出演。指揮者は、23、25、26日が山田和男、27、28日がローゼンシュトック | |
4 | 全日本青少年団の最高幹部が15、6名、翌日には東京帝国大学、東北帝国大学の各科のクラス委員60名が体操・音楽の講習を受けるために来園。さらに次の日には入学式で祝辞を述べていただく及川古志郎海軍大将(海軍大学校校長)が来訪 | |
6 | 6月の中旬から7月のはじめにかけて、上は予科生や専門部の学生から、下は中等部の1年生まで、さらに特別に女学部の生徒たちを加えて、全学部の生徒を3班にわけて、富士の裾野で野営訓練を実施。土橋大尉を先頭に、中学部の下級生と女学部の生徒たちが、山開きの初日に、4日間にわたる野外教練を兼ねて御殿場側から富士登山を行う | |
18・19 | 日比谷公会堂にて開催されたローゼンシュトック指揮の日本交響楽団演奏会の「第九交響曲」に出演 | |
7 | 5 | 共立講堂での演奏会において、「山本長官を讃ふ」の曲「海行かば」を東京高等音楽学院(後の国立音楽学校、現在の国立音楽大学)の生徒と混声合唱 |
26 | 合宿労作や、各地の農家へ分宿しての勤労奉仕、工場や会社での実習が夏休みの期間中に行われた | |
9 | 23 | 興亜工業大学予科生、ラジオ放送で「行くぞ空の決戦場」を合唱 |
11 | 3 | 明治神宮奉納錬成大会(体育祭)において、グライダー滑走訓練を公開 |





4.1944(昭和19)年
月 | 日 | 出来事 |
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3 | 23~ | 中学生が自発的に田奈部隊に勤労奉仕。女生徒も3学年以上は自発的に参加 |
31 | 興亜工業大学、玉川の丘を去る | |
4 | 26~ | 勤労動員協力令により、中学5年生40名が毎日、町田特殊鋼製作所にて勤労奉仕 |
5 | 13 | タイ、フィリピン、ジャワ、ビルマより教師団が参観のために来園 |
6 | 機関誌『全人』は紙の統制により休刊。戦後の1946(昭和21)年1月から再刊 | |
10 | 12 | 李王妃殿下が来園 |
下半期 | 住友通信研究所、糸川研究所、成田無線研究所、東亜経済調査局(南満州鉄道株式会社調査部)などの一部が学園内に疎開 |


5.1945(昭和20)年
月 | 日 | 出来事 |
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1 | 5 | ラジオ放送「第九交響曲」に玉川学園合唱団が出演 |
3 | 31 | 玉川工業専門学校設置認可 |
5 | 初等部、中学部、女学部低学年の生徒たちは、5月中旬に山中湖畔に疎開。疎開先発隊は4月に出発 | |
6 | 13・14 | 日比谷公会堂にて開催された尾高尚忠指揮の日本交響楽団演奏会の「第九交響曲」に玉川学園合唱団が出演 |
22 | ラジオ放送(全国放送)「第九交響曲」に玉川学園合唱団が出演 | |
7 | 1 | 玉川工業専門学校開校式。航空機科、電波兵器科の2科構成。その後、航空機科は機械科に、電波兵器科は電気科に9月11日付で名称変更が認可された。さらに終戦とともに、工科、農科、文科の3科に分かれた。当時、工科27名、農科22名、文科13名であった |
9 | 1 | 教育活動再開。始業式は9月6日に執り行われた |
29 | 連合軍映画撮影隊が、玉川学園における新教育実践の状況を撮影のため来園 | |
10 | 23 | 戦没者追悼式。学園卒業生の戦没者は50余名。この日の追悼式では、18名の卒業生が追悼された |
11 | 3 | 終戦後第1回の大運動会を開催 |
22 | 小原國芳学園長、新生日本は教育立国にありと、困難な交通事情の中で教育行脚を再開。戦後第1回目の教育行脚は東京都江戸川区の教育会へ | |
12 | 1~3 | 第1回新生日本教育研究会を開催 |
30 | ラジオ放送「第九交響曲」に玉川学園合唱団が出演 |


関連リンク
参考文献
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年
- 玉川学園編『写真集 小原國芳 信』 玉川大学出版部 1978年
- 玉川学園編『玉川教育―玉川学園三十年―』 玉川大学出版部 1960年