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印刷部の誕生

2024.07.02

玉川学園が創立した1929(昭和4)年の7月に印刷部が誕生。学内で組版・印刷ができる体制を整備。印刷部門を内製化することは、学校組織としては非常に稀なこと。コストを削減するとともに、“本当に良いものをつくる”という玉川学園の理念があるからに他ならない。

1.印刷部の誕生

印刷部が誕生したのは、玉川学園創立の約3か月後の1929(昭和4)年7月21日。印刷部の建物は、かつての塾食堂(りんどう食堂)、現在の「STREAM Hall 2019」のある場所に建てられた。玉川学園創立者小原國芳は、印刷業務を学校にはなくてはならない仕事として考えていた。南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』(玉川大学出版部/1977年発行)に、小原の少年時代の思い出として次のような記述がある。

半紙を買って黙々と写本を始めた。三日間でみんな写した。表紙の厚紙も手製で作った。ウコンという南方特有の植物の根から、黄色い汁をとって表紙を染めた。和とじにして先生のところへ持って行った。
「がっつい、ようできたが、立派に色をぬったね。元の本よりよかど」先生は頭をなでてほめてくれた。
教科書はほとんど写した。前の年に写したから、読み方を兄たちに聞く。製本術もしぜん覚える。
  (略)
後年、小原の教育哲学のもととなった「労作教育」は、少年時代に手がけた 染め物、写本、製本の苦労と喜びがその母体であった。

1929(昭和4)年7月21日に完成した印刷部
(その年、絵葉書の1枚として撮影された写真)

印刷部の最初の仕事は、小西重直著『労作教育』の制作であった。当時は印刷部と言っても、購買部、出版部と同様、現在のように職場に職員がいてすべてを行うといった体制ではなく、教職員、学生、生徒たちの労作によるところが大きかった。したがって印刷部等は教育の場、学習の場といった性格を持っていた。具体的に印刷部では印刷主任の指導の下、教職員や塾生をはじめとする学生、生徒たちにより、活字が拾われ、組まれ、印刷されていた。塾生の労作教育として始まった印刷部。当時の様子がいくつかの記録に残っている。岡田陽著「玉川学園草創期(その3)」(『全人教育』臨時増刊 第359号 玉川大学出版部 1978年 に所収)に塾生会議労作部門創設後1年間の記録が掲載されており、その中で印刷部が次のように解説されている。

印刷部-活字鋳造、植字、製版、紙型、刷り、簡単な製本まで出来た。雑誌、ビラ、パンフレット、名刺などを作ったが、数名の塾生は職人もおどろく程のすぐれた技術を持ち、一日四時間の労作で充分の成果があったという。
  (略)
印刷部は指導者の職人さんが退職し、塾生六人だけで運営するようになった。ある時はテフーの印刷機が二日間徹夜で町田警察署の「健康週間」のビラを刷りあげ、単行本では玉川文庫を四・五冊やった。「ペスタロッチーを慕いて」をやった。「母のための教育学」の改版をやった。「あれもやった。これもやった。忘れてしまった。」という位の大活躍だった。

また、当時のことが、玉川学園機関誌『全人教育』第279号(玉川大学出版部/1972年発行)につぎのように記述されている。

学園の印刷部が今度は玖村先生の『ペスタロッチーの生涯』を作成することになった。作る前は出来るかなと案じたが、印刷係諸兄が「よしやろう」と、一致団結毎日夜おそくまでがんばりました。文選部長 専門部の橋本君、高等部の小倉君、植字係 高等部の北前君、校正係 高等部三家本君、印刷係 中学部の佐々木君、それぞれ係での奮闘、さては東京銀座、築地、神田と走りまわって活字の心配、毎日夢中でした。ある日は徹夜してまで張切り、日本文化のためと思えば労苦も忘れ、かえってやりがいがあります。
遂に見事難関と思われていた本、菊判284頁を完成させました。出来た時の喜び、ホントに涙の出るほど嬉しかったです。

(『ペスタロッチーの生涯』作成記「専門部・加藤恒則・昭和23年」)

印刷部での印刷労作

『全人』第814号(玉川大学出版部/2017年発行)の白柳弘幸著「故きを温ねて(43)」 につぎのような記述がある。

「ホントの知育を成就せんが爲に勞作敎育が必要」(『玉川塾の教育』)と断言し、机上の学問ではなく、自らの手足頭を駆使し試行錯誤しつつ学ぶことを重んじた。
そうした理論を実践するために、草創期の学園には農芸、飼育、工芸、土木等14の労作部門が置かれ、初期の機関誌発行は出版部と印刷部の学生たちが行った。
「印刷部に至りては、活字造り、組み、紙型作り、印刷、折り、製本、装幀などと、いろいろな物理、化學、技巧、美術、國語、計算、さまざまの貴い學習が出來る」と労作で出合う学習事例をあげた。
「かくしてこそ、否、かくしてのみ、生きたホントの國語が、歴史が、數學が、理科が學ばれる……工藝館も、購賣部も、農場も……すべてがお互いの敎場なのです。學習室なのです」「眞知を得るために、お互いは勞作をするのです」と続く。

1959(昭和34)年頃 製本作業
1959(昭和34)年頃の中学部印刷室
(文選作業)

1939(昭和14)年に玉川学園女子高等部を卒業された安田礼子さんが、研究エッセイとして、『全人』第671号(玉川大学出版部/2004年発行)に「労作教育が生んだ『サイン屏風』」というタイトルで寄稿されている。その中で印刷労作をした時のことをつぎのように記している。

私たち女子高等部の学生は、労作の時間に時折出版部を手伝いました。印刷もほとんどが学生の作業によってなされていた頃のことです。活版印刷の時代でしたから、文選、そして植字の仕事がありました。膨大な活字の中から字を探すことはたいへんな努力と注意と辛抱がいる作業です。鉛に刻まれた文字を一字ずつ拾って版の大きさの木の箱に並べるのです。

しかし、1950(昭和25)年に玉川学園を襲った経営パニック(大学設置による経費の拡大)により、印刷部は機能停止となった。4年後の1954(昭和29)年に当時出版部長代理であった山田康五氏が中心となって印刷部を再建。しかしその頃には、教育の場、学習の場であった印刷部の役目は終了を迎えていた。学内の印刷の需要が増し、さらに複雑化することにより、学生、生徒では対応できなくなったためである。これは印刷部に限らず、購買部、出版部、その他の部門も同様であった。それは教育体制が変化したことにも起因していると言える。

2.活版印刷時代(1929年~1981年)

活版印刷時代は、学内の名刺や封筒、事務・学務帳票など、限られた分野の印刷を行っていた。活版印刷とは文字通り、「活」字を組み合わせて作った「版」を用いて印刷する手法のこと。手書きの原稿に沿って活字を順に拾っていく「文選」、拾った文字と句読点や記号などを決められた形に組み上げる「植字」など、相当の熟練技術と時間が必要とされる。活字は活版印刷に使う凸型の字型。古くは木製、のちには方形柱状の金属の一端の面に、文字を左右反対に浮き彫りにしたもの。これを組み並べて活版を作る。左右反対の文字を手書きの原稿に沿って拾い集めることは至難の業である。

1959(昭和34)年頃の印刷部
印刷労作
印刷労作
印刷労作
印刷労作

1972(昭和47)年に玉川学園の印刷部門に配属された川村光弘氏が、文選や植字のことをつぎのように語っている。

文選では、例えば35文字×30行のフォーマットを埋めるのに、1,050回も文字を拾う作業が発生します。植字も一つひとつ文字を組んでいく上に、表組みなどが入る場合、その形成もする必要があります。A4版の表組みだと、その作業に1日を費やさねばならないほどです。こうした作業には専門知識・技術が求められ、また、時間も要するため、学内でできる印刷物の範囲は限定せざるを得ませんでした。

学園の出版活動の拡大や学内印刷需要の増大にともない、印刷部は労作の場としての性格を他に譲り、専門職者による運営に移行した。1972(昭和47)年当時は、印刷部門は総務部の中に置かれ、庶務課印刷係として活動していた。当時の印刷係の部屋は工学部校舎(後の大学8号館)新館の地下2階にあった。当時専門の職員が6名で業務を担当していた。文選係(原稿を見ながら活字を拾い集める)が2名、組版係(集めた活字を原稿の指定に合わせて組む)が2名、印刷係(活字を組んだものを機械にかけて印刷する)が2名。当時、小物は出席カードから、大物は『学園報』や答案用紙まで、各部署からの印刷依頼に応え、印刷部門は忙しい日々を送っていた。

上述の『全人教育』第279号(玉川大学出版部/1972年発行)につぎのような記述がある。

現在、印刷部を持っている大学は少なからずあるが、それらの大学でも活版で入学試験の問題を組み、印刷できる所はまずない。多くの大学では、大蔵省とか刑務所などの印刷局に印刷を依頼しているが、この一事を考えても、印刷係が学内に存在する機能性、経済性を無視することは出来ない。

やがて活版印刷の時代に終止符が打たれるが、活版印刷時代に制作された物は、「全人教育」に掲載する身辺雑記の文字組版、事務帳票・名刺・ハガキの文字組版・印刷など学校運営に必要不可欠なものばかりであった。

3.オフセット印刷時代(1982年~1998年)

1982(昭和57)年、この頃から玉川学園では学校広報を本格的に開始することになる。学校広報にはそのための印刷物が必要であり、したがって、商業印刷物と同程度の質と量を実現する印刷システムが求められた。しかし、前述の通り活版印刷には膨大な時間がかかるため、学内で広報物を制作することは困難。かといって、外部に印刷を委託すれば、経費がかさむことになる。そこで導入されたのが、オフセット印刷だ。オフセット印刷とは、版を一度ゴムブランケットなどに転写し、それを紙に印刷する手法のこと。版が直接紙に触れずに、一度、転写(offset)されることからその名で呼ばれている。オフセット印刷の特徴は非常に鮮明な印刷が可能で、大量印刷にも向いていること。広報物を印刷するためには最適な印刷手法である。

玉川学園が導入したのは、高性能高速印刷機である西ドイツ製ハイデルベルグ社のオフセット印刷機。1988(昭和63)年10月のこと。この印刷機はハイデルベルクGTO-ZPで、両面一色・片面二色兼用、1時間に1万枚の印刷が可能。非常に高価だが、高品質で質の高い印刷が可能だ。新しい印刷手法に対応するために、スタッフの研修も必要だった。外部の印刷会社に出向いたり、ハイデルベルク社のオペレータに教えを請いたりして、数か月を要して新しい技術を自分たちのものにしていった。これにより、カラーのチラシやポスター、複数ページにわたるパンフレットも印刷可能となった。川村氏自身も、ハイデルベルク社の印刷機に強い思いがあり、つぎのように語っている。

ハイデルベルグ社の印刷機は、自動車で言えばメルセデス・ベンツやBMWのような高級品です。それほどの機器を導入したのは、玉川学園に「本当に良いものを使って、本当に良いものをつくる」という理念があったからだと思います。私もその印刷機を見たとき、「これを使いこなす知識と技術さえあれば、良いものがつくれる」と感じ、全力で使い方を学びました。

ハイデルベルグ社のオフセット印刷機

同時に、これを教育活動でも活かそうと、大学の文学部芸術学科美術専攻(当時)でグラフィックデザインを専門としている学生を対象とした教育実習にも取り組んだ。実習生は、実際にハイデルベルク社の印刷機を使い、オフセット印刷の原理やインクの特性、カラー再現のしくみなどを学んだ。印刷の現場で実物に触れることで、学生たちにとっては学ぶことも多かったことだろう。

4.デジタル印刷時代(1999年~現在)

これまでのオフセット印刷では、専門技術者により和文タイプライターで印刷紙面の作成を行っていた。しかし、マイクロソフト社のWordやExcelといった文書・表計算作成ソフト、デザイン専用のIllustrator、PhotoshopなどのDTPソフトの普及が進むにつれ、印刷もデジタル時代へと移行していく。

  • DTP(Desktop Publishing)とは、書籍、新聞などの編集に際して行う割り付けなどの作業をパソコン上で行い、プリンターで出力を行うこと。

1999~2000年にかけて、玉川学園でもイントラネットを整備しデジタル複合機を導入。コンピュータで作成したデジタルデータを転送しプリントアウトするという、ネットワークを活用した印刷システムを構築した。これにより大幅な業務削減を実現し、少人数でも滞りなく印刷業務が行えるようになった。

当時、オフセット印刷による廃油や油水の発生、印刷物の大量印刷による大量の在庫の発生を解決するための検討が行われていた。折しも、2000(平成12)年12月に幼稚園から大学までの総合学園として世界ではじめてISO14001の認証登録を受けるべく、学内に環境保全活動への取組に関する意識が高まっていた。そのような中、玉川学園は富士ゼロックス株式会社との包括契約を締結し、2000(平成12)年4月にドキュテックステーションを開設する。こうして印刷もデジタル時代へと移行。印刷のデジタル化により、必要な時に必要な量だけ印刷ができ、廃油や油水の発生もなく、上述の課題が解決されることとなった。

富士ゼロックス株式会社より、サイトマネージャー(総括責任者)をはじめDocuTechオペレーション責任者、前処理工程担当者、操作担当者、さらに学内契約コピー機63台と学生用コインコピー機12台の日常管理担当者の5名が学内に派遣され、印刷業務の新たな運用が始まった。この運用について、山田剛康著「ドキュテックステーション」(『玉川学園の教育活動 玉川大学の教育活動 玉川大学大学院の研究活動』 2007年-2008年 に所収)につぎのように記されている。

創立以来の伝統である活版印刷からオフセット印刷へと印刷技法の進歩とともに培われた「手づくり教材」の制作を継承するとともに、DTP(Desktop Publishing)システムを導入、高速オンデマンド・パブリッシャー・システムDocuTechとの連携により、デジタル化、オンデマンド化を推進しています。
DTPによる教材のデシタル化と「必要な時に・必要な分だけ・カスタマイズされた情報をプリントアウトする」オンデマンド・プリントにより、制作物の一部分の修正、改訂等が容易になり、効率的で質の高い制作物を提供することができます。これは、激しい社会変化に対応するために、いかにして最新の価値を教材・研究資料などのドキュメントに、タイムリーに盛り込むかといった課題を解決します。さらに、短納期実現により執筆者が、より質の高い教材を制作するために不可欠な、執筆時間の拡大にも貢献しています。

当時、日本で2台目のデジタル印刷機

デジタル印刷の大きな利点の一つは、版が必要ないことだ。版は非常に高価で、ページ数が多いほど費用がかさむ。実際、玉川学園で使う印刷物の多くは、大学における紀要や報告書、学術論文、卒業論文などであり、それらは大量の部数は必要としないが、ときには1冊が400~600ページもの分量になることがある。したがって、デジタル印刷導入によるコスト削減は大きな成果があった。

ただし、デジタル印刷は大量ロットの印刷には不向きで、逆にコストが増えてしまう。そこで、ロットの多い印刷物はアウトソーシングすることで経費の削減にも取り組んだ。こうして、学内で使用する報告書や論文、イベントプログラムなどから、広報用のチラシ、ポスター、パンフレットまで、多岐にわたる印刷物を低コストで実現するシステムが構築されたのである。

労作の1つとして始まり、学校印刷の第一線を走り続け約85年続いた印刷部門は、2000(平成12)年から業務提携し協同運営をしてきた富士ゼロックス株式会社に完全業務委託。DTS(ドキュメントテックステーション)が誕生した。2015(平成27)年のこと。

DTSは学内に設置されていることから、これまで同様、教職員や学生、生徒からのさまざまな要望に応えるため、コミュニケーションを取りながら、玉川の伝統である“本当に良いもの”を提供する姿勢を継承し教育現場を支えている。

DTSで制作した教材等

参考文献

  • 小原國芳監修『全人教育』 玉川大学出版部
      第279号(1972年)
  • 小原哲郎監修『全人教育』第400号 玉川大学出版部 1981年
  • 岡田陽著「玉川学園草創期(その3)」(『全人教育』臨時増刊 第359号 玉川大学出版部 1978年 に所収)
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 白柳弘幸「故きを温ねて(50)」(『全人』第684号 玉川大学出版部 2005年 に所収)
  • 白柳弘幸「故きを温ねて(43)」(『全人』第814号 玉川大学出版部 2017年 に所収)
  • 白柳弘幸「小原國芳の『夢の學園』と勤勞學園―夢への一歩―」(『全人』第877号 玉川大学出版部 2022年 に所収)
  • 安田礼子「労作教育が生んだ『サイン屏風』」(『全人』第671号 玉川大学出版部 2004年 に所収)
  • 山田剛康「ドキュテックステーション」(『玉川学園の教育活動 玉川大学の教育活動 玉川大学大学院の研究活動』 2007年-2008年 に所収)
  • 『玉川教育-1963年版-』玉川大学出版部 1963年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年

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