小原哲郎

2025.02.18

小原哲郎は、父國芳が「八大教育主張講演会」で初めて「全人教育」を語った日の夜に生まれた。慶應義塾大学卒業後、玉川学園に奉職。1973(昭和48)年学校法人玉川学園理事長、玉川大学学長、玉川学園女子短期大学学長、玉川学園学園長に就任。教育のための人材、施設、経済的土台を磐石なものとするために尽力し、玉川学園と生涯を共にした。

小原哲郎は1921(大正10)年8月8日、小原國芳と信の長男として東京の西大久保で生まれた。その日は、國芳が東京高等師範学校(現・筑波大学)の講堂で開催された「八大教育主張講演会」で、初めて「全人教育」を語った日でもある。哲郎は小学校3年生のときに、父國芳らと共に、一家で玉川学園に移り住む。その後、玉川学園の小学部、旧制中学部、専門部を卒業。戦後、復員して、1946(昭和21)年に長男芳明が、1948(昭和23)年に長女真理子が誕生。

慶應義塾大学文学部卒業後、國芳の教育事業を助けるべく、1951(昭和26)年に玉川大学助手として玉川学園に奉職。翌年31歳の若さで学校法人玉川学園評議員および理事に就任。1962(昭和37)年に玉川大学文学部教授となる。1973(昭和48)年学校法人玉川学園理事長、玉川大学学長、玉川学園女子短期大学学長、玉川学園学園長に就任。國芳の没後、その夢を受け止め、教育のための人材、施設、経済的土台を磐石なものとするために尽力し、玉川学園と生涯を共にした。

哲郎が理事長・学長・学園長に就任

哲郎は、玉川学園創立50周年記念事業の柱として、「教育内容の充実」、「教育施設の拡充」、「国際教育の振興」を掲げ、玉川教育の幹をさらに揺るぎないものとし、枝を伸ばし、葉を繁らせて姿を整えた。特にその中でも「教育内容の充実」を重点施策と捉え、「学園の将来の盛衰の鍵は教育研究の如何にある」と考え、一貫教育体制の中での教育理念の構造化、教育実践活動における方法論の検討、教育研究体制の確立、カリキュラム再編などを行った。加えて、教育の基盤である研究の充実を図るため、玉川学園学術教育研究所を設立、大学院では農学研究科と工学研究科に博士課程後期を設置した。

玉川学園創立50周年記念式典
玉川学園創立50周年記念祝賀会

また哲郎は、「教育は単なる精神論のみではできない、めざす教育の場にふさわしい条件の整備が不可欠」として「教育施設の拡充」を図り、中学部新校舎や記念グラウンド、記念体育館を建設。その後も教育博物館、玉川学園講堂、小学部新校舎、新松陰橋の建設など教育環境の充実に取り組んだ。1977(昭和52)年には、無霜地帯の中でも冬季温暖であり、熱帯資源植物研究には最適の地である鹿児島県の久志の土地を購入し、翌年、久志農場を開場。また同年、箱根演習林に宿泊研修施設「須雲塾」を建設した。

中学部新校舎、記念グラウンド、記念体育館、工学部校舎
箱根須雲塾
新松陰橋渡り初め
教育博物館開館

さらに哲郎は、「国際教育の振興」にも力を入れ、カナダ西部のブリティッシュ・コロンビア州ナナイモ市において土地を購入し、1976(昭和51)年に「カナダ・ナナイモ校地」を開設、国際教育を時代にマッチさせた形で実践しようとした。実際にナナイモ校地では、国際理解教育プログラムが実施され玉川大学・玉川学園の学生・生徒の学修の場となっているとともに、地元ナナイモを中心としたカナダ国内の教育機関などとの交流を通して地域社会にも貢献している。またその前年の1975(昭和50)年にデンマーク・オレロップ体操チームを招聘。招聘委員会会長の國芳とともに、哲郎が招聘委員会委員長として中心となり、一行の全国での公演を実現させた。オレロップ体操チームの44年ぶりの来日は、日本の体育教育の啓蒙に大きな役割を果した。一行は、本学の体育祭にも参加し、大体育館で体操演技の発表を行った。学生、生徒、児童は本物に触れ、多くの学びを得る機会となった。

玉川学園カナダ・ナナイモ校地披露式
大体育館でのオレロップ体操チームの演技発表

1951(昭和26)年に刊行が開始された『玉川こども百科』。この編纂にあたり、陣頭指揮を執ったのが哲郎であった。100巻という壮大なスケールの百科辞典の編纂・刊行で、100巻目の刊行は1960(昭和35)年12月。百科の中の『春の植物』『夏の植物』『秋冬の植物』の3冊が、1959(昭和34)年に第6回産経児童出版文化賞を受賞した。

“第二のシュナイダー”“近代オーストリア・スキーの父”と言われたシュテファン・クルッケンハウザーが1963(昭和38)年に来日するにあたって、オーストリアにおいて直接交渉にあたったのが哲郎であった。また玉川大学出版部では、クルッケンハウザーの招聘と共に、現代オーストリア・スキーの技術を紹介した『シー・ハイル』を刊行。この編集の代表も哲郎であった。

哲郎は明日への夢を描き続け、「初代は器を作る泥を運んできた、2代目は泥をひねって器を作り、何でも好きなものを入れなさいと差し出した、それに何を入れるかは、次の世代が考えること」と語った。その言葉の中に、玉川学園の高い志を受け継ぐ歴史が現れている。

1994(平成6)年4月1日、哲郎は玉川学園総長・玉川大学総長・玉川学園女子短期大学総長に、芳明が理事長・学長・学園長に就任。4月8日の玉川学園創立記念日「全学教職員の集い」の式典終了後、会場をりんどう食堂に移して、総長・学長就任お祝いの会を開催。その後哲郎は、1997(平成9)年に玉川学園名誉総長・玉川大学名誉総長に就任した。

総長・学長就任お祝いの会

哲郎は学外においても教育振興に寄与。1972(昭和47)年に日本私立短期大学協会理事、翌年には日本私立大学協会常務理事、さらには1982(昭和57)年に日本私立大学協会副会長・日本私立短期大学協会副会長に就任。私学の代表として大臣等を訪ね、私学関係予算の陳情あるいは教育諸問題について懇談を行った。例えば、1978(昭和53)年には福田赳夫総理大臣を私邸に、1979(昭和54)年には大平正芳総理大臣を首相官邸に訪ね、1981(昭和56)年には前田常務理事とともに首相官邸に鈴木善幸総理大臣を表敬訪問した。1984(昭和59)年にはデンマーク王国よりダンネベルク・ナイト勲章を受章。同年、財団法人安藤記念奨学財団理事に就任。1987(昭和62)年には教育振興に寄与した功績により藍綬褒章を受章。1992(平成4)年に日本私立大学団体連合会副会長、翌年には私立大学退職金財団理事長に就任した。

ダンネベルク・ナイト勲章を受章
私学助成問題について砂田文部大臣と面談
大平正芳首相を官邸に訪問
前田常務理事と、鈴木善幸首相を表敬訪問

國芳とともに学校運営に携わり、教育研究活動の推進、教育施設設備の充実、学校財政の整備・強化を進めてきた哲郎であったが、2011(平成23)年6月28日午前2時5分、相模原市内の病院で逝去。89歳。葬儀(前夜式、告別式)は7月1日に玉川学園講堂でしめやかに執り行なわれた。そして「お別れの会」が8月10日正午からホテルニューオータニで開かれた。

『小原哲郎 静かなる勇気』(学校法人玉川学園/2011年発行)の巻頭で、芳明がつぎのように記している。

父は1994(平成6)年3月、学長としての最後の卒業式訓辞に、論語の「知仁勇」の言葉を引用しました。「『知者は惑(まど)わず、仁者は憂(うれ)えず、勇者は懼(おそ)れず』という言葉があるが、しっかりとものを考える力を持てば惑うことがなく、心に大事な優しい気持ちを持っていれば、仁者として己の分を尽くして憂いがなく、つねに道義に適(かな)い静かな勇気を保てば、何事に遭遇しても懼れがないということだろう」と述べました。父はまさにこれを自己に課し続けた人生を生きたように思います。

参考文献

  • 玉川学園編『小原哲郎 静かなる勇気』 学校法人玉川学園 2011年
  • 小原國芳監修『全人教育』 玉川大学出版部
     第294号(1974年)、第316号(1975年)、第325号・第328号(1976年)、第337号(1977年)
  • 小原哲郎監修『全人教育』 玉川大学出版部
     第347号・第348号・第349号・第350号・第351号・第358号(1978年)、
     第362号・第366号・第369号・第372号・第373号(1979年)、 第377号・第389号(1980年)、
     第396号・第398号(1981年)、第430号・第431号・第432号・第436号(1984年)、
     第468号・第474号(1987年)、第539号(1993年)、第550号・第551号(1994年)
  • 小原芳明監修『全人』 玉川大学出版部
     第753号(2011年)
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年

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