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ハンネス・シュナイダー

2013.03.21

世界一の教育を子供たちに―日本のスキーの歴史を塗り替えた人物

玉川学園では、伝統的にスキー教育を重んじてきた。玉川学園とスキーの結びつきを振り返る際に、忘れてはならないのが、ハンネス・シュナイダーの存在だ。シュナイダーは1890年、オーストリア・チロル州に生まれた。1890年代にヨーロッパ・アルプス地方で始まったスキーの黎明期に、世界のスキー普及に偉大な足跡を残した人物だ。

小原國芳がシュナイダーの存在を知ったのは、生徒の一人が言った何気ないひと言がきっかけだった。1930(昭和5)年の正月、子供たちを連れてスキー場を訪れた小原國芳は、「どうせ習うなら、世界で一番スキーのうまい人に教わりたい」という生徒の言葉に心動かされる。小原國芳が「それは誰なのか」と生徒に問い直すと、こんな答えが返ってきた。

「先生、知らないんですか? オーストリアのハンネス・シュナイダーですよ」
どんなことでも、一流のものを子供たちに触れさせることに意義を感じていた小原國芳は、即座に招へいを決め、正確な宛先も分からないまま、「オーストリア サン・アントン」に電報を打つ。

「日本にスキー教授に来てくれ。往復一等。三週間滞在。一週間見物。滞在費一切負担。謝礼一万円。東京、玉川学園長 小原國芳」

当時の1万円は現在の価値にして1千万円以上と高額であったため、小原國芳は頭を抱えながらも資金繰りに奔走。さまざまな人から、借金を重ね、1万円を何とか工面し、シュナイダー氏の来日を実現させた。

1930年3月に来日したシュナイダーは、本学と成城学園の生徒に対し、池の平で講習会を行った。当時を振り返って小原國芳は『山のような借金が出来ましたが、生徒たちが「世界一」を迎えた喜びにひたっている姿に、私は救われました』(『教育一路』)と語っている。

また、小原國芳はシュナイダーの「真の精神を体得しさえすれば、百の方法は自ら生まれ来る」という考えに本学の学風と「面白いほどの共通点」を見いだし、次のような感慨を述べている。

「吾々は、実に、此のスキー道を通して、真の人間精神を、ホントの教育道をも会得したいのである。氏のスキー道が吾々の年来主張せる教育道と一致することが愉快にたへぬのである。そして氏のスキー道はまた、体験を生命とされることである。吾々の学校が、体験、実証、証得、労作、自学、自律、個性、自由といふことを尊重するのとまた一致して居ることはうれしい。幼少の頃より、アルベルグの丘で、渓谷で、自由自在に、自ら学び、貴く体験し、実得されたのが実にアールベルグスキー道である」

シュナイダーは1930年に来日した際に、スキー連盟の要請も受け、各地で講習会や講演会を開催。その素晴らしい技術を披露し、観衆を驚嘆させた。シュナイダーは日本に初めて、スチール・エッジを持ち込んだ人物であり、以来、日本のアルペン・スキーは一変し、アールベルク一辺倒となった。現在でも野沢温泉には、シュナイダーが真一文字に滑降した急斜面に「シュナイダー・スロープ」の名前が残されている。シュナイダーがもたらした技術は、その後発展をつづけ、日本のスキーは飛躍的に進化。独自の文化と世界と闘える強さを持つ、日本のスキーが形づくられていった。

1990年にはシュナイダーの生誕100年、来日60周年を記念して、本学および成城学園、各スキー団体などが中心となり、ハンネス・シュナイダー祭が行われた。現在でも、本学のスキー学校では、シュナイダーにちなんで、練習の始まりと終わりに皆で集まり、ストックを高く掲げ「シー ハイル(ドイツ語で、スキー万歳!の意)」の掛け声を交わすことが恒例となっている。玉川キャンパスには、ハンネス・シュナイダーの銅像も建てられており、アルペンスキーの父と玉川学園との絆を、今に伝えている。

参考文献
小原國芳『少年たちに告ぐ』(小原國芳編『学園日記』9号 玉川学園出版部 1950 所収)
長岡忠一『日本スキー事始め』ベースボール・マガジン社 1989
『奥志賀高原 ハンネス・シュナイダー スキー写真展』パンフレット 2011

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