玉川工業専門学校
玉川大学へ続く道筋を開いた―工業専門学校
1945(昭和20)年、興亜工業大学の去った丘に、再び玉川塾を拡充し、工業専門学校を設置しようという機運が高まってきた。当時、学園内に内閣戦時研究11研究所(糸川研究所)と、その姉妹研究所であった登戸無線研究所(成田無線研究所)が疎開していたことも、その一因だ。これらの研究所を利用し、工業専門学校の教育を展開する、いわば産学協同の試みであった。また、近隣には、東中航空兵器株式会社があり、研究実習のための広大な施設利用が行えるという好条件も重なった。これらの施設の協力の下、玉川工業専門学校では、優秀な航空機の創案設計や増産、また電波兵器の製作技術、電子工学のさらなる研究、新兵器の創意工夫などを行うことが検討された。
終戦間際の1945年1月末、申請書がまとめられ提出された。当時の申請書には、「個性尊重」「創意工夫」「天分伸長」「自学自律」に加え、「学行一体」「身心一如」「理論と実際の融合」「学問と体験の合一を中心とした労作教育」や「国防と産業の教育の一体化」「工場の学校化」などの教育目標が記されている。
時代の波にさらされたがゆえに、教育指針に戦時色が表れてはいるものの、本学が創立以来掲げてきた「全人教育」を教育目標の主眼に置いていることはいうまでもない。また、現在にまで続く「産学協同」の姿勢が、そこには見てとれる。
玉川工業専門学校は1945年、7月1日に開校。学科は航空機科、電波兵器科の2科。修業年は3年間と定められた。入学資格は中学校卒業者。開設年には定員の40倍の受験生が殺到した。当時園内にあった国防館を物理館とし、中学部の長い教室と旧興亜工業大学の校舎を用いて、授業が進められた。また、全寮制度を導入し、「師弟同行」の精神の下、24時間教育を行い、尽忠報国の国士養成を目指した。この「国士」という言葉は時代の要請でもあった。
しかし、玉川工業専門学校の開校後まもなく、終戦を迎える。同年9月には学則変更をし、航空機科は機械科に、電波兵器科は電気科となった。さらに、機械科のなかには、工科以外の農科、文科志望者も第二部、第三部の名称の下に所属していた。これらの学生の多くは、旧制玉川大学の開設とともに、その予科に移行する。1946年当時の生徒数は工科(機械科、電気科)27人、農科22人、文科13人の計62人。少人数で目の行き届いた教育が行われた。
終戦後の混乱のなか、学生たちは食糧増産のための開墾に、教育研究会実施のための大労作にと奔走した。休日と学校行事以外はほとんど毎日、開墾作業が行われていたという。教職員が刊行されたばかりの「学習大辞典」を抱えて、地方の学校や知人に販売して歩いたのもこのころのことである。
一方で、合唱や劇、体操なども、新教育の一環として取り入れられた。進駐軍の見学参観などもあり、体育、合唱、舞踊などのデモンストレーションが頻繁に行われた。学生の大部分は合唱部員であり、「第九交響曲」の「メサイア」をはじめ、多くの合唱曲をやっと手に入れた背広姿でステージに立って歌った。体育館は工場が疎開先として稼働していたため使用できず、狭い礼拝堂の舞台で、空中回転や体操が行われた。アコーディオンの伴奏で「愛国の花」の舞踊などが繰り広げられた。
教科書は、粗末な謄写版ずりのものしかなく、学習環境は決して恵まれたものではなかったが、小原國芳は西洋哲学史の白熱した授業を行い、糸川英夫教授の物理学は原爆からガイガーカウンター、航空機設計の苦心談にまでおよび、梁田貞教授の音楽の時間には発声練習の響きがグラウンドにまでこだました。
玉川工業専門学校の開設を機に、大学新設への機運が高まり、そのための労作が続いた。1947年に玉川大学(旧制)の予科を発足させたが、工業専門学校の学生の大半が、大学予科生として学習を継続した。
1948年3月には初めての卒業生を送り出すこととなり、小原國芳は卒業生たちに「一生に一つしかない命、人生は繰り返すことができない」と命の尊さについて切々と語った。第1回卒業生は59人、翌年3月に32人の第2回卒業生を送り出すとともに、玉川工業専門学校は大学に吸収され、発展的廃校となった。
参考文献
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980
玉川学園同窓会編『玉川学園同窓会 2002会員名簿』 玉川学園同窓会事務局 2003
『玉川工業専門学校 設置認可申請書』1945