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玉川学園久志高等学校

2013.08.05

郷里の子供たちに玉川教育を 父母の眠る故郷の地に建てた高校

上空からの学校の様子 昭和31年2月6日撮影

鹿児島県の西南端、川辺郡西南方村久志(現・南さつま市)に1948(昭和23)年、旧制玉川大学の付属高校として創設されたのが、久志高等学校だ。当時は敗戦直後であり、社会や経済は戦後の混乱が続いており、高等学校教育も学制改革の影響から混迷の時期にあった。そのような折、小原國芳は教育立国を叫び、地域的にも経済的にも高等学校教育の機会に恵まれなかった川辺郡久志の地に、地元の青少年の教育救済をし、また、地元住民の自立心を育み、地域振興を図るため、高等学校の設立を思い立つ。自身の誕生の地である久志に、小原國芳は特別な思い入れがあったようで、設立の経緯を次のように語っている。
「人間、誰でもが故郷が恋しいでしょうが、私は人一倍かも知れませぬ。父も母も眠り給う故郷、幼な友達の誰彼の幾人かが生き残って居てくれる故郷。村の人達が喜んでくれる故郷。(中略)そして不便な不便なところ、更に、青年学校も高等学校もひどい山坂越えての向うの区に在ってかわいそうな事情にある、私達の区の青少年のことを思うと、矢も楯もたまらぬのです」(『玉川教育(1963年版)』)
郷土の地に、久志高等学校を玉川学園の分校として設立したのには、小原國芳が幼少のころ、貧困のため、旧制中学に進学できなかったという生い立ちも影響している。「父も母も亡くなって極貧のドン底。いろいろの口惜しさに対する私の僅かばかりの発心なのです」そして、「私を育ぐんでくれた郷里。その村の少年少女たちが少しでも高い教育が受けられたしという私の念願からなのです」と、その強い思いを語っている。(1951年『全人』1月号)
海山に囲まれ、風光明媚な久志ではあるが、一次産業に頼るのみの地域であるため、経済的な困窮から、住民の大半は義務教育を終えると、働かざるを得ないのが現実であった。新設された久志高等学校は、久志周辺の住民にとって朗報となり、向学心に燃える青少年に大きな希望の光をもたらした。

校舎落成祝賀会にて
昭和25年(1950年)10月17日

久志高等学校は、全日制と定時制の2部授業に加え、通学距離の遠い生徒を対象に定時制の授業(1952年に一時休校、実質上閉鎖)も行った。初代校長には松山貢を置き、初年度の新入生は、全日制が31人、定時制は38人であった。
生徒たちは、村内からはもちろん、屋久島などの離島から、また宮崎県などの他県からも集まった。年齢も30歳を超える者から、その半分にも満たない中学新卒者、また、学歴も旧制中学卒、専門学校卒、軍籍にあった者、実業についていた者と多種多様であり、定時制のなかには現職の小学校教員なども含まれていた。

校舎 南の果ての地に雪が
昭和39(1964)年

教室は、尾辻哲氏が寄贈した病院跡を改造したものを使用。のちに、地域住民の奉仕と協力、生徒と教職員が一体となった労作により、1950年、本校舎が完成した。当時、PTA会長を務めていた父兄の言葉が残っている。「数百万の巨費を投じて建造された近代的で堅牢優美な建物である。外観といい、内部の施設構想といい、こんな片田舎には稀にみる立派な建物である」
その教育内容は本校と大きく異なることはない。玉川学園の教育方針にのっとり、教育が進められた。本学と同様、久志高等学校では、宗教を教育の根本に置き、毎週木曜日に礼拝を行った。自由研究も同様に行われ、発表展示会では郷土研究、手芸服飾、言語、文学、音楽、美術、工芸、生物、機械、数学など、多くの分野にわたっての研究成果が展示された。玉川大学の学生も教育実習生として半年交代で来校し、英語・理科・音楽・体育などの授業を行った。これは、学生にとっても意味のある実習となり、また玉川学園との交流ということでも意義深いものであった。芸術教育も熱心に行われた。県内の音楽祭に参加して、完成度の高い混声合唱に賞賛の声も寄せられた。また毎年12月24日には、グループごとに周辺の地域を回り、クリスマス・キャロリングを行うのが常であった。

朝礼の様子

久志高校の教育活動の特徴をあえて挙げるなら、労作は、教育活動であると同時に、彼らの生活に密着したものであったといえるだろう。生徒たちを取り巻く生活環境は、「一日不作 一日不食」の言葉通り、働かなければ生活できない状態にあった。また、過疎化により、人手不足が深刻で、経済環境も恵まれたものではなかった。したがって、果樹園の植林、薪炭作りなどの生産的労作や、校舎材の運搬・石垣積み・台風防災用の網作りなど環境整備の労作などが積極的に行われた。また、修学旅行費用をつくるためのテングサ採りも恒例行事となった。一方、本学の高校生も臨海学校の際に、久志高等学校の生徒と交流し、彼らが採取した海産物やタケノコ、煮干しなどを手土産にもらったりした。

1963年には近隣の高等学校が閉鎖となったため、入学者が激増。これに伴い、枕崎、坊泊地区からの通学者のために、路線バスが増便運行されるようになった。また、奄美大島など、遠方からの入学希望者も増加し、単車やバイクを利用した通学者も増え、60年代は入学者数が安定していた。また、玉川大学への進学希望者も増加した。
しかし、1970年代に入って、社会の高度経済成長とともに、県下の過疎化が次第に進んでいった。一方で、道路網が整備され、近隣には公立高校が増設されたことで、地域住民は公立高校への進学を志望するようになる。1979年には、生徒の確保が難しくなり、募集を停止。廃止に際し、在籍生徒24人は、よりよい教育環境で高等学校教育が受けられるよう、保護者の希望を汲み、玉川学園高等部への転入学を円満に完了した。
久志高等学校は、玉川学園の困難な財政をおして、廃校までの30年にわたって、900人を大きく超える卒業生を世に送り出した。そして、1979年7月31日付で鹿児島県より同校の廃止が認可された。


参考文献
小原國芳編『全人』20号 玉川学園出版部 1951
小原國芳編『全人教育』No.219 玉川大学出版部 1967
小原國芳編『全人教育』No.295 玉川大学出版部 1974
小原哲郎編『全人教育』No.365 玉川大学出版部 1979
玉川学園編『玉川教育―1963年版』玉川大学出版部 1963
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』玉川学園 1980
『玉川学園久志高等学校沿革史』
『玉川学園久志高等学校廃止認可申請書』

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