ヴェルナー・チンメルマン博士
小原國芳とチンメルマン博士、二人の生涯の友情
「それぞれの人間は、自分の課題をこの世界の中で認識せよ。
あなたの実現に最善の力を尽して働けよ。
毎日自分の同胞を喜ばせよ。そして創造に対する畏敬のうちに、また大地と宇宙の法則との調和のうちに生きよ。」
―ヴェルナー・チンメルマン―
本学の校歌の作曲者である岡本敏明氏は、チンメルマン博士と会ったときのことを、自身の著作『実践的音楽教育論』において、次のように述べている。「わたしの勤めていた玉川学園に、スイスの教育家チンメルマンが飄然としてやってきて、たくさんの輪唱やアルプスの山の歌を教えてくれました。そして、学校の行事にすぐ結びつけて生きいきと輪唱を指導するチンメルマンから、わたしは多くのものを学んだのです。」
本学の創立者小原國芳の親しい友人であり、欧州における玉川通として知られたチンメルマン博士は1893(明治26)年に生まれ、ベルン大学で教育学を修め、ペスタロッチの教育に憧れて山村の若い教師となり、さらには、青少年の健康の自由生活運動の指導者として活躍されたスイスの教育者である。
1930(昭和5)年には、アメリカを経て初めて日本の地を踏み、玉川学園にも来園している。『全人教育』(昭和53年1月号)に掲載されている博士の「玉川に寄す」の一文に、そのときの様子が記されている。「1930年、私は日本の一客船に乗ってハワイを経由し、初めて日本を訪ねたのであった。一人の日本人が、船中で行った私の講演に感銘を受け、私に日本の大都市や学校で話をするようにと頼んできた。そこで私は、スイスの本質的な問題や、教育者としての私の仕事について話をした。東北の弘前に行った時、次のようなことが私に告げられた。『日本にもペスタロッチがいる。今から一年前、彼は東京の郊外玉川の丘に、スイスの大偉人の思想に基づいた教育塾を創立し、それを指導している。スイスから来た教師と知ったならば、さぞ喜ぶだろう』と。この邂逅(かいこう)によって、二人の生涯の友情が結ばれることとなったのである。」
また、博士が初めて玉川学園に来園したときの様子が、『全人教育』(昭和57年10月号)に次のように記されている。「博士が初めて玉川学園を訪ねられた時のいでたちは、帽子もかぶらず、ネクタイもしめず、玉川シャツのような上衣に半ズボンで、めったに靴下もはかず、革製のワラジをはいて、リュックサック一つだったという。小原は書いている。『全く、神武天皇の再来かと思いました。一見して好きになりました。魂の融け合い。玉川においてくれと。しかも、学生と一緒に住みたい。40日も一緒に生活してくれました。しっかり写真におさめて持って帰りました。ドイツ語の教え方も素敵でした。スイスの歌や踊りも教えてくれました。ピアノも中々巧みでした。山の人だし、乳しぼりも上手だし、山のぼりは特に』と。ともかく、一度会ったその日から、肝胆相照らす仲となられたお二人だったのである。」
玉川学園を初めて訪れた翌年の1931(昭和6)年には、欧米へ教育行脚に出られた小原國芳の、ドイツ、オーストリア、スイス各地での講演の通訳をチンメルマン博士がつとめられた。國芳の海外の視察と講演行脚は、ヨーロッパ、北米、中南米、中国、韓国など戦前、戦後を通じて十数回を数えるが、そのきっかけとなったのがチンメルマン博士であった。『教育とわが生涯 小原國芳』に、チンメルマン博士が初めて玉川学園を訪れ、そして帰国し、國芳の欧米教育行脚を迎えるまでのことが次のように記されている。「生徒たちもすっかりなついて、『チンさん』の愛称で人気者となった。チンメルマンの方も、玉川の労作教育に驚いた。四十日間にわたって写真や映画に学園のもようを写して帰国したが、帰国後、スイスからしきりにヨーロッパへ来いといってくる。玉川で写した映画を持って彼はスイスだけでなく、ドイツ、オーストリアをまわった。反響がすごいから、ぜひ出かけてくれというわけだ。三国にまたがる約百万の団員を持つ青年団長がチンメルマンの役であった。・・・(略)・・・ヨーロッパ入りすると、チンメルマンが万端準備を整えていた。チューリッヒ、ベルン、ウィーン、ミュンヘン、シュツットガルト、ベルリン、ハンブルクなど、各地で講演会の切符が前売りされている。・・・(略)・・・ハンブルクでは六千枚売れて四千人収容の大公会堂が超満員になったため、同じ講演をもう一晩、熱演した。・・・(略)・・・ベルリンでは聴衆約三千人。文部大臣が最前列で聞きいった。」
戦後、國芳はチンメルマン博士の案内のもと、再びヨーロッパ各地で40回にわたる講演を行っている。
チンメルマン博士は1949(昭和24)年に続いて1953(昭和28)年にも玉川学園を訪れ、その際の旅行記を『東方の光、精神的日本』と題して執筆している。4度目の玉川学園訪問は1958(昭和33)年に奥様と、そして1977(昭和52)年の5度目の訪問は単身で、しかも2カ月にわたって國芳宅の客となった。このとき、國芳は90歳、チンメルマン博士は84歳であった。お二人の初めての出会いから47年の月日が流れていた。そして1980(昭和55)年の秋には、玉川大学名誉教授として玉川学園創立50周年記念式典に出席するために6度目の訪問。しかし、1977(昭和52)年12月13日に國芳は他界しており、二人の再会は実現しなかった。
そして、チンメルマン博士も1982(昭和57)8月29日、祖国スイスの地において89年の人生を終える。親日家であったチンメルマン博士は、日本の宗教、文化を研究し、『アジアの光』や『光は東より』などの本を出すとともに、『未来の学校-小原國芳の人と仕事』を書くなど玉川学園を「第二の故郷」と慕う教育家であった。
参考文献
石橋哲成「チンメルマン博士と小原國芳」(小原國芳編『全人教育』No.411に所収) 玉川大学出版部 1982
岡本敏明『実践的音楽教育論』(株)河合楽器製作所出版部 1974
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』玉川学園 1980
W.チンメルマン(昌谷春海訳)「玉川学園に寄す」(小原國芳編『全人教育』No.346に所収) 玉川大学出版部 1978
南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』玉川大学出版部 1977