玉川豆知識 No.165
ウルトラマンと金城哲夫と玉川学園
ウルトラマンの生みの親の一人が金城哲夫。金城が玉川学園に入学していなければ、もしかしたらウルトラマンは誕生していなかったかもしれません。と語る人もいるぐらい、金城は玉川学園での生活、学び、出会いなどから大きな影響を受けていたと言われています。
1.ウルトラマン
テレビ番組『ウルトラマン』は円谷プロダクションの制作で、1966(昭和41)年7月17日から翌年の4月9日まで全39話が放送されました。TBS系列で毎週日曜日の19時から30分間の放送。最高視聴率が42.8%(ビデオリサーチ調べ:関東地区)の人気番組でした。番組の主人公ウルトラマンは宇宙の彼方から飛来し、地球を脅かす怪獣や宇宙人と戦うヒーローです。
この作品の企画が開始されたのがテレビで放送される約1年前。当時、放送中の『ウルトラQ』がヒットしていたことも追い風となり、TBSのプロデューサーと円谷特技プロダクションの企画文芸部の責任者であった金城哲夫が中心となってさまざまなアイデアを出し合うこととなりました。そして誕生したのがウルトラマン。そのウルトラマンが初めてテレビに登場してから56年が経ちますが、今なお人気を誇っています。今年2022(令和4)年には、映画『シン・ウルトラマン』が公開され、大ヒットを記録しています。
【テレビ番組『ウルトラマン』】
放送回 | 放送日 | 登場怪獣・宇宙人 | 脚本 | 視聴率 (%) | |
---|---|---|---|---|---|
年 | 月日 | ||||
- | 1966 (昭和41) | 7/10 | - | 金城 哲夫 | 30.6 |
1 | 7/17 | ベムラー | 関沢 新一 金城 哲夫 |
34.0 | |
2 | 7/24 | バルタン星人 | 千束 北男 | 34.6 | |
3 | 7/31 | ネロンガ | 山田 正弘 | 33.6 | |
4 | 8/7 | ラゴン | 南川 竜 | 29.5 | |
5 | 8/14 | グリーンモンス | 藤川 桂介 | 29.0 | |
6 | 8/21 | ゲスラ | 山田 正弘 | 34.9 | |
7 | 8/28 | アントラー | 南川 竜 金城 哲夫 |
34.0 | |
8 | 9/4 | レッドキング、チャンドラー、マグラー、ピグモン、スフラン | 金城 哲夫 上原 正三 |
36.6 | |
9 | 9/11 | ガボラ | 山田 正弘 | 39.5 | |
10 | 9/18 | ジラース | 金城 哲夫 | 39.0 | |
11 | 9/25 | ギャンゴ | 宮田 達男 | 30.1 | |
12 | 10/2 | ドドンゴ、ミイラ人間 | 藤川 桂介 | 37.6 | |
13 | 10/9 | ペスター | 金城 哲夫 | 38.3 | |
14 | 10/16 | ガマクジラ | 佐々木 守 | 37.8 | |
15 | 10/23 | ガヴァドン | 佐々木 守 | 37.4 | |
16 | 10/30 | 2代目バルタン星人 | 千束 北男 | 38.9 | |
17 | 11/6 | ブルトン | 藤川 桂介 | 36.0 | |
18 | 11/13 | ザラブ星人、にせウルトラマン | 南川 竜 金城 哲夫 |
39.8 | |
19 | 11/20 | バニラ、アボラス | 山田 正弘 南川 竜 |
36.8 | |
20 | 11/27 | ヒドラ | 金城 哲夫 | 39.0 | |
21 | 12/4 | ケムラー | 海堂 太郎 | 36.5 | |
22 | 12/11 | テレスドン、地底人 | 佐々木 守 | 38.0 | |
23 | 12/18 | ジャミラ | 佐々木 守 | 38.2 | |
24 | 12/25 | グビラ | 藤川 桂介 | 35.8 | |
25 | 1967 (昭和42) | 1/1 | ギガス、ドラコ、2代目レッドキング | 若槻 文三 | 35.7 |
26 | 1/8 | スフランII、ゴモラ | 金城 哲夫 若槻 文三 |
37.5 | |
27 | 1/15 | ゴモラ | 金城 哲夫 若槻 文三 |
37.0 | |
28 | 1/22 | ダダ、ダダ上司 | 山田 正弘 | 37.7 | |
29 | 1/29 | ゴルドン | 南川 竜 金城 哲夫 |
36.1 | |
30 | 2/5 | ウー | 金城 哲夫 | 39.9 | |
31 | 2/12 | ケロニア | 海堂 太郎 | 38.7 | |
32 | 2/19 | ザンボラー | 藤川 桂介 | 39.2 | |
33 | 2/26 | メフィラス星人、3代目バルタン星人、2代目ザラブ星人、2代目ケムール人、巨大フジ隊員 | 金城 哲夫 | 40.7 | |
34 | 3/5 | スカイドン | 佐々木 守 | 33.9 | |
35 | 3/12 | シーボーズ | 佐々木 守 | 37.2 | |
36 | 3/19 | ザラガス | 山田 正弘 | 38.4 | |
37 | 3/26 | ジェロニモン、ピグモン(再生)、ドラコ(再生)、テレスドン(再生) | 金城 哲夫 | 42.8 | |
38 | 4/2 | キーラ、サイゴ | 上原 正三 | 34.4 | |
39 | 4/9 | ゼットン、ゼットン星人、ゾフィー | 金城 哲夫 | 37.8 |
※視聴率はビデオリサーチ調べ(関東地区)
上記の一覧表のとおり、視聴率が1番高かったのが37回の42.8%、2番目に高かったのが33回の40.7%、3番目に高かったのが30回の39.9%、いずれも脚本を担当したのは金城哲夫でした。
2.金城哲夫と玉川学園との出会い
金城は沖縄出身と言われていますが、実は1938(昭和13)年7月5日に東京で生まれています。獣医だった父親の忠榮は麻布獣医学校(現在の麻布大学)で学ぶために、妻つる子とともに上京し、二人は2年間、東京で生活することになります。そしてその時に金城哲夫が誕生します。その後、沖縄に戻った金城は中学生時代までその沖縄の地で過ごしています。金城が沖縄出身と言われている所以です。中学校卒業後、金城は玉川学園高等部を受験するため、沖縄から船と列車を乗り継いで4日間かかって上京。当時、沖縄と本土との行き来には外国旅行なみの手続きが必要でした。
金城が玉川学園高等部を受験したのは、母親のつる子の勧めがあったからでした。つる子は、玉川学園の創立者小原國芳が1952(昭和27)年にアメリカ統治下にあって本土復帰前の沖縄で講演をした際に、知人から借りた小原の本を読んだことから玉川学園を知りました。そしてその玉川学園に息子を入学させたいと思うようになりました。その思いが通じて金城は玉川学園高等部に入学。そして、小学生から大学生までが一緒に生活する学園内の寄宿舎に入ります。その寄宿舎は「塾」と呼ばれていました。「塾教育」を経験するとともに、「全人教育」や「労作教育」、「芸術教育」などの玉川教育を体験したことが、その後の金城に大きな影響を与えたとも言われています。
3.上原輝男の影響を受けて脚本制作に興味を持ち始め、そして円谷英二と出会う
金城が玉川学園高等部の2年生になったとき、3年生と2年生が一緒に受講する講座制が導入されました。金城が受講した講座の担当講師は、入学試験のときに彼を面接した上原輝男でした。上原はこの講座で民俗学について金城たちに熱く語りました。この講座、そして上原との出会いが金城の将来に大きな影響を与えることになります。
金城が玉川学園高等部を卒業して玉川大学文学部教育学科へと進学するのと時を同じくして、上原が高等部教諭から玉川大学専任講師へと職を移しています。なんという偶然でしょうか。あるいはなんという運命でしょうか。そして金城は、高等部の時の担当教諭であり、大学時代の恩師である上原の影響を受け、脚本制作に興味を持ち始めることとなります。
金城は1961(昭和36)年23歳で玉川大学を卒業し、一旦沖縄に帰り、沖縄の役者を使って映画『吉屋チルー物語』を自主制作(制作・脚本・監督を担当)。その頃、上原は、玉川学園高等部で円谷皐の担任をしたのをきっかけに、『ゴジラ』や『空の大怪獣ラドン』、『モスラ』など大ヒット特撮映画を世に送り出し“特撮の神様”とも呼ばれていた円谷英二から『竹取物語』の脚本化の依頼を受けていました。その前年、上原が脚色した『おさい・権三 燃ゆる恋草』が、松竹によって映画化されています。
同時期、再び上京した金城はこの『竹取物語』の脚本化にも関わり、この経験を通して脚本家を目指すことを決意。金城は上原に円谷英二を紹介してほしいと頼みます。上原は円谷皐を介して、脚本家志望の金城を円谷英二に紹介。円谷皐は円谷英二の次男で、後に円谷プロダクションの第3代社長になります。玉川学園に入学したこと、そしてそこで上原に出会ったこと、その上原が円谷英二の息子の円谷皐の担任をしていたこと、上原が円谷英二から脚本化の依頼を受けていたことなどのさまざまなことが重なって、金城は円谷英二と出会うこととなります。そしてその出会いがウルトラマンの誕生に繋がります。
4.ウルトラマンの誕生
やがて金城は、円谷英二の自宅である円谷特技研究所に出入りするようになります。円谷英二は脚本家ではありませんでしたので、『ゴジラ』など東宝特撮映画の脚本家である関沢新一に金城を預けることにしました。金城は関沢から指導を受けることになり、脚本家としての道を歩み始めます。1962(昭和37)年、金城の脚本デビュー作『絆』(純愛シリーズ)が円谷英二の長男である円谷一(円谷プロダクション第2代社長)の演出でテレビ化され、TBSで放送されました。この頃の金城は、7歳年上の円谷一にとても気に入られており、二人は兄弟のように仲が良かったと言われています。その後も近鉄金曜劇場の『こんなに愛して』(TBS)や『泣いてたまるか』シリーズの『翼あれば』(TBS)など、彼の脚本がテレビで放映されます。
1963(昭和38)年、金城は特撮で有名だった円谷特技プロダクションに入社します。そして、円谷英二監督のもと企画文芸部の責任者として『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『快獣ブースカ』、『ウルトラセブン』、『怪奇大作戦』など、円谷プロ制作の特撮テレビ映画の企画・脚本を担当することになります。メインライターとして脚本を手掛けるとともに、他のシナリオライターへの脚本の執筆依頼や改訂作業、監督のローテーションの編成、放送局や制作現場のスタッフ等との調整などの役も担っていました。『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』の3シリーズ合計116本の作品のうち、金城が脚本を担当したのは、共同執筆も含めて40本にもなります。
シナリオライターたちは、テーマに沿ってストーリーを組み立て、そこにどのような怪獣を登場させるかを考えるのが通常ですが、金城はそうではありませんでした。まず怪獣ありき。考え出した怪獣をどのように行動させたら面白い作品ができるか、そんな逆発想でストーリーを作っていきました。
そして円谷作品は爆発的にヒットし、怪獣ブームを引き起こします。金城は、担当したシリーズにおいて、特撮娯楽作品の枠を超えた名作と評価される作品を多く残しました。その反面、制作されなかった脚本も多くあったようです。
清水節著「1966年、空想特撮シリーズ ウルトラマン の誕生」(『シン・ウルトラマン 空想特撮映画』パンフレット)に、「ウルトラマンは子どもたちに多角的な視点を養わせ明るい未来へ向かう心の指針となった」と書かれています。さらに金城について次のように語られています。
メインライターとして腕を振るいつつ、脚本家に各話の執筆を依頼し、放送局や制作現場との調整役もこなしたのは、円谷プロ企画文芸部門の責任者だった脚本家・金城哲夫。ハヤタ隊員を中心とする“防衛チーム”科特隊が、宇宙からやってきた“巨大ヒーロー”ウルトラマンとともに、“怪獣・宇宙人”に立ち向かうという対立軸のフォーマットを、金城は創り上げた。危機的状況に陥ったハヤタ隊員が、ウルトラマンと一心同体になって戦う世界観は画期的である。
さらにそこには次のような記載があります。
金城は沖縄出身だった。幼少期に上陸してきたアメリカ軍の猛攻撃を浴びながらも、戦争体験を周囲に一切語らず、情熱的で底抜けに明るい人物だったと誰もが証言する。占領下の沖縄から思春期に上京した金城は、「沖縄と本土を結ぶ架け橋」になる志を抱いた。悲惨な過去を心の奥底にしまい、互いに認め合って人々が一体化するという希望や理想へと反転させていったのではないだろうか。沖縄にはニライカナイ信仰がある。光の国からやってくるウルトラマンの物語は、海の彼方から神々がやってきて豊饒をもたらす来訪神の伝承が、宇宙時代の神話へと発展したかのようでもある。
またその中に、金城の創作ノートについての記述があります。
怪獣の性格や状況設定からドラマを展開する能力があった金城は、創作ノートに「新鮮な素材!完全なプロット!意外な結末!さわやかな感動!」と書き付けた。
5.沖縄に戻った金城
沖縄を題材にした小説を書きたい、本土復帰を沖縄で迎えたい、本土と沖縄との架け橋になりたいという思いもあり、1969(昭和44)年に円谷プロを退社。沖縄に戻った金城は、琉球放送のラジオ番組のパーソナリティー、沖縄伝統の大衆演劇や沖縄芝居の脚本・演出を手掛けました。イベント番組『新春民謡紅白歌合戦』の司会も話題となりました。そして最後の仕事が、沖縄海洋博の式典の構成・演出でした。その後、1976(昭和51)年2月23日、老舗の料亭「松風苑」の敷地内にある自宅2階の書斎へ直接入ろうとして足を滑らせて転落。すぐに病院に搬送されましたが、3日後の2月26日に脳挫傷のため37歳の若さで亡くなりました。
円谷プロ所属時代に心に残る作品を数多く世に送り出し、沖縄に戻っても活躍した金城は、没後、テレビや演劇、本などで取り上げられています。例えば、NHKテレビの「歴史ヒストリア」。あるいは、金城の没後40年の2016(平成28)年2月10日から21日までの12日間、劇団民芸により「光の国から僕らのために―金城哲夫伝―」が紀伊國屋サザンシアターで上演されました。円谷プロも金城の貢献を高く評価し、2016(平成28)年には「ウルトラシリーズ」放送開始50年を記念して、テレビ向けの企画・脚本を公募する「円谷プロダクションクリエイティブアワード 金城哲夫賞」を創設。さらに、金城自身の伝記が3冊出版されるなど、金城は脚本家・プロデューサーとして、極めて稀有な存在感を残しています。
参考
(1)玉川学園沖縄慰問隊に参加
金城は17歳のときに、まだ本土復帰されていない沖縄への慰問隊に参加しました。男子生徒9名、女子生徒8名、教諭2名で結成された「玉川学園沖縄慰問隊」で、この慰問隊のきっかけとなった沖縄への旅行を計画した宮城勝久(後に玉川大学教授)とともに、金城は先発隊として沖縄に向かいました。慰問隊の真の目的は沖縄の郷土研究で、琉球政府、沖縄タイムスや琉球新報などの新聞社、放送局、琉球大学、那覇高校などの高校を訪問しました。この時の引率教諭が門脇朗示と上述の上原輝男でした。なおこの慰問隊の壮行会が出発前日の1956(昭和31)年3月8日に開かれ、その模様はNHKテレビのニュースでも紹介されました。
(2)「第九」演奏会に出演
「歌に始まり歌に終わる」と言われるぐらい「音楽教育」にも力を入れている玉川。1960(昭和35)年7月3日には文京公会堂にて玉川学園演奏会の名で音楽祭が開催され、近衛秀麿の指揮のもとABC交響楽団によるベートーヴェンの「第九」が演奏されました。これが玉川学園が主催した初めての「第九」演奏会でした(第九演奏会への出演はありましたが)。玉川学園高等部を卒業後、玉川大学文学部教育学科へと進学し、当時大学4年生になっていた金城が、『全人教育』第132号(1960年8月発行)に、この演奏会の出演者としての声を次のように寄せています。
歓喜の最高頂をオーケストラと合唱団が天井を吹き飛ばすような音でうたう頃、私はこれが最後の「第九」かと身をふるわせて声の限りにうたった。指揮者の近衛秀麿先生の姿が、岡本敏明先生、小山章三先生の姿にスレ変る。「第九」を暗記するのに苦しい思いをした高校生の頃の音楽担当の先生だ。歓喜の楽章はいよいよ高まってゆく。「間違ってもいいんだ、デッカイ声でやれ!」と教えられた先輩たち。みんながそこに立って歌っているようだ。同じ歌、同じ玉川っ子。馴染深いソリスト。合唱は終った。オーケストラが急テンポに最後の楽章を奏し「第九」は終った。
湧き上る嵐の拍手の中で私はまだ七年間の想い出の中に身を置いているようであった。私は感動で動けないほどだった。
(3)キリヤマ隊長が語った「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」
『全人』第817号(玉川大学出版部発行)の「故きを温ねて」に「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」という碑文のことが記されています。玉川学園創立者である小原國芳が話をしたその言葉が、金城の心の中に深く刻まれていたのかもしれません。
碑文はこの言葉をアレンジした小原國芳の金言としてよいだろう。
(略)
碑が設置された2年後の2月、特撮テレビ映画『ウルトラセブン』「空間X脱出」(第18話)が放映された。当時大きな話題となったこの劇中、地球侵略をねらう宇宙人から地球を守るキリヤマ隊長が「神なき知育は、知恵ある悪魔をつくることなり。どんなに優れた科学力を持っていても、奴は悪魔でしかない」と部下に語るシーンがある。
脚本を書いたのは円谷プロダクション所属の金城哲夫で、本学文学部教育学科1961年度の卒業生。小原の話を覚えていたか、碑文を見ていたのであろう。
(4)円谷プロの基盤を作ったひとりである金城
金城と同様に玉川教育にとても影響を受けたという円谷一夫(円谷英二の孫)が、『全人』第661号(2003年8月発行)の「玉川の先輩を訪ねて・・・・・・・」で次のように語っています。その中に金城の名前も出てきます。なお、円谷一夫は、中学部、高等部、大学と玉川で過ごし、このインタビューの時は円谷プロダクションの取締役会長に就任していました。
玉川での強烈な思い出は、労作ですね。みんなでわあっと作業に取り組み、ひたすら汗を流し、知恵も使う。あの夢中さは製作現場と同じなんです。
(略)
祖父、叔父や父親、多くの企画や脚本に係わった玉川大学出身のシナリオライター・金城哲夫さん。加えて、円谷プロの基盤を作ってくれた多くの人たちのおかげで、今がある。
参考・引用文献
- 金城哲夫著『小説ウルトラマン』 筑摩書房 2002年
- 山田輝子著『ウルトラマン昇天-M78星雲は沖縄の彼方』 朝日新聞社 1992年
- 山田輝子著『ウルトラマンを創った男-金城哲夫の生涯』 朝日新聞社 1997年
- 清水節「1966年、空想特撮シリーズ ウルトラマン の誕生」(『シン・ウルトラマン 空想特撮映画』パンフレット 東宝株式会社映像事業部 2022年 に所収)
- 金城哲夫「新しき仲間」(『全人』第89号 玉川学園大学出版部 1957年 に所収)
- 小原芳明監修『全人』第661号 玉川大学出版部 2003年
- 白柳弘幸「故きを温ねて」(『全人』第817号 玉川大学出版部 2017年 に所収)
- 「玉川学園沖繩派遣慰問隊おみやげ話」(『全人』第80号 玉川学園大学出版部 1956年 に所収)
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年