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玉川豆知識 No.168

北原白秋と玉川学園運動会歌

「玉川学園運動会歌」を作詞したのは、童謡作家の北原白秋。1933(昭和8)年の玉川学園第4回運動会(現在の体育祭)で初めて歌われました。また、小原國芳の教育哲学に共鳴した白秋は歌人として、國芳の活動を題材に数々の和歌を残しています。

1.玉川学園運動会歌

青雲はれて そよぐこずえ
見よ朝だ 風が笑う
フレフレ玉川
飛べよ走れ われら
風と走れ 玉川フレフレ

北原白秋(左)と小原國芳

この歌詞と共に、秋の青空の下で行われた運動会(現在の体育祭)を思い返す玉川学園の卒業生は多いのではないでしょうか。この歌の作曲を担当したのは玉川学園校歌や「どじょっこ ふなっこ」の作曲で知られる岡本敏明。そして作詞は、童謡作家の北原白秋。初め「成城学園運動会歌」として作詞されたこの歌は、白秋の配慮で、後には「玉川学園運動会歌」としても歌われることになりました。そして、成城学園では「フレフレ成城」、玉川学園では「フレフレ玉川」と歌われました。玉川学園運動会歌が初めて歌われたのは、1933(昭和8)年10月15日に開催された玉川学園の第4回運動会において。なお「運動会歌」は、1933(昭和8)年、小原國芳が成城学園の校長を辞した後は、ほとんど玉川学園だけで歌われるようになり現在に至っています。

『全人教育』第604号(1998年発行)の「教育博物館館蔵資料紹介(92)」に第4回運動会のことが書かれており、その中に玉川学園運動会歌についての次のような記載があります。

この運動会で注目すべきことは北原白秋作詞、岡本敏明作曲の「玉川学園運動会歌」がブラスバンドの演奏で初めて歌われたことである。

玉川学園第4回運動会
『塾生愛吟集』

白秋は父兄としてこの運動会を観覧席で参観。この時、白秋が「フレフレ玉川」の歌詞で運動会歌を聞いたと思われます。そのことが、『全人』第755号(2011年発行)の「玉川の丘めぐり⑯」に次のように記されています。

この年、白秋は学園の運動会を初めて参観。観覧席から玉川っ子たちの歌声を聞かれたに違いない。学園史料室に残されている一番古い歌集である『塾生愛吟集』(1937年版)では、「玉川學園運動歌」とある。
創立者・小原國芳のよき理解者であった白秋は、創立間もない本学園に自分の子どもを預けた。その縁で「玉川學園運動歌」が生まれた。1932、33年に本学園で行われた労作教育研究会では特別講師を務めた。
白秋は生涯で、国内はもとより台湾など外地にあった学校も含め、数多の校歌や応援歌の作詞を手がけた。しかし、一学校の運動会のための作詞は数えるほどで、作詞されて80年近くなった今も歌い続けているのは本学園のみのようだ。

2.北原白秋

『赤い鳥』

北原白秋といえば明治から昭和にかけて活躍し、「からたちの花」(作曲:山田耕筰)や「ペチカ(作曲:山田耕筰)」、「城ケ島の雨」(作曲:梁田貞)、「この道」(作曲:山田耕筰)などで知られる詩人・歌人・童謡作家です。その一方で白秋は、数多くの校歌や応援歌の作詞も手がけていました。また彼が活躍した時代は、大正自由教育運動が勃興した時期でもありました。それまでの教師中心の注入主義的な旧教育から、子供の関心や感動を大切にする教育へ。当時、そうした理想を掲げて設立された学校は数多く、玉川学園もその一つといえます。同じような動きは文芸の分野でも顕著でした。象徴的な出来事が、日本における児童文化運動の父とされる鈴木三重吉による児童文芸誌『赤い鳥』の創刊。1918(大正7)年のことです。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』『杜子春』や有島武郎の『一房の葡萄』、新美南吉の『ごん狐』などの文学作品も、この『赤い鳥』に掲載されて世に出ました。

そしてこれら文学作品と同様に、社会から大きな反響を呼んだのが童謡だったのです。当時の唱歌や説話は政府によって作られたものであり、そこからは子供の素直な心や芸術的な香気は感じられませんでした。そうした中、赤い鳥で「からたちの花」を発表したのが北原白秋でした。白秋らが発表した童謡の数々は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになり、一大潮流となっていきました。現在、私たちが童謡と認識している曲の数々は、この時期に作られたものが少なくなく、まさに童謡の黄金期といえました。白秋は、その中心人物の一人でした。ちなみに日本童謡協会が1984(昭和59)年に、7月1日を「童謡の日」と定めましたが、これは赤い鳥がこの日に創刊されたことによります。

3.北原白秋と玉川学園の意外な接点

『女性日本』創刊号

北原白秋と玉川学園の結びつきは強く、小原國芳の教育哲学に共鳴した白秋は、当時國芳が校長をしていた成城学園に2人の子供を託しました。1933(昭和8)年、國芳が成城学園の校長を辞して、玉川学園の教育に専念するようになると、2人の子供を玉川学園に転校させました。理想を掲げて新たな教育の場を作り上げた國芳。それまでの唱歌にはない感性豊かな童謡を発表するなど文芸の分野で新たな流れを作り出した白秋。この当時、國芳は「出版は私学経営に不可欠」と考え、『児童百科大辞典』や教育書を発行していましたが、さらに女性向けの修養雑誌として1932(昭和7)年に『女性日本』を発刊。そして國芳は白秋に歌詞の創作を依頼しました。『女性日本』創刊号の巻頭には、白秋の手による「女性日本の歌」が掲載されています。この詩に曲を付けたのは後に本学の教員となる「城ヶ島の雨」などの作曲で知られる梁田貞。以後、白秋は『女性日本』を創作の場として数多くの詩や随筆などを発表していくことになります。他にも白秋は歌人として、國芳の活動を題材に数々の和歌を残しています。

「小原先生を思ふ歌」というタイトルで國芳を題材にした白秋の歌が『全人』第80号(小原國芳古稀記念特集号/1956年発行)に掲載されています。これは『女性日本』第8号(1933年発行)に掲載されたものの再録です。

つくづくと深く思ふはこの丘のここにはじめてぞ石を置きし人
日の光いよよ閑かに新なり草いきれふかき荒地菊の花
うれしくてをどる裸のこのよさやこの若きにぞ青空はあれ
小原国芳この人はよしほがらかにただ学園を我家とせり
大き業君は楽しみき楽しとするこのよろこびに何まさるなし
事すべて私ならず君はただに公にありて子らを思ひき
すべもなくつまりける世に夜も起きて頭垂れゐけむその黒き影
夜ふかく君を思へば善き悪しきすべてはるかなり撲たるる我は
我が太郎声はあげつつ帰りたり小原先生えらしと云ふなり
我の子はまこと直なりや人はいざただにひたぶるに眼もまじろがず
ただに専に小原先生をよしとする幼なごころに我が額下る
空白に点ひとつうつ事すらやありがたきものを君は創り出ぬ
憂ふ無き君はさもあれ事広くつくづくと人をよく憂へしむ
大味と味はよろしけ幾塩と薩摩の鰤は塩辛くのれ

和歌や童謡の作家として知られる北原白秋。校歌や応援歌の創作はそのような彼の創作活動の一面であり、それほど知られてはいません。玉川学園の子供たちも、彼の作品とは気づかずに歌っていることでしょう。けれども秋になると玉川の丘に毎年響いた「玉川学園運動会歌」のそのメロディ、その歌詞は、子供たちが大人になっても胸に刻まれているに違いありません。

参考文献

  • 小原國芳編輯『女性日本』 玉川學園出版部
      創刊号(1932年)、第8号、第15号・第18号(1933年)
  • 小原國芳編輯『學園日記 労作教育研究』 玉川學園出版部
      第52号・第53号(1933年)
  • 北原白秋「小原先生を思ふ歌」(『全人』第80号(小原國芳古稀記念特集号) 玉川学園大学出版部 1956年 に所収)
  • 白柳弘幸「玉川の丘めぐり⑯ 北原白秋と運動会歌」(『全人』第755号 玉川大学出版部 2011年 に所収)
  • 潟山晧一「教育博物館館蔵資料紹介(92) 玉川学園の体育祭小史――玉川学園運動会歌初めて歌われる――」(『全人教育』第604号 玉川大学出版部 1998年 に所収)
  • 体育祭の歴史編集委員会編集『玉川学園・玉川大学 体育祭の歴史』 玉川学園・玉川大学体育・スポーツセンター 2009年

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