玉川豆知識 No.169
われらの学校は、われらの手で――玉川学園久志高等学校
過疎化により人手不足が深刻で、経済環境も恵まれたものではなく、生徒たちを取り巻く生活環境は、「一日不作 一日不食」の言葉通り、働かなければ生活ができない状態でした。そのため修学旅行費用をつくるための天草採りなどが行われました。その他労作として、果樹園の植林・薪炭作りなどの生産的労作や、校舎材の運搬・石垣積み・台風防災用の網作りなどの環境整備といったことが積極的に実施されました。
1.玉川学園久志高等学校の設立
鹿児島県の西南端、川辺郡西南方村久志(現・南さつま市)に1948(昭和23)年、旧制玉川大学の付属高校として創設されたのが久志高等学校。開校式は5月5日。4月1日に遡っての設置認可が6月22日におりました。当時は敗戦直後であり、社会や経済は戦後の混乱が続いており、高等学校教育も学制改革の影響から混迷の時期にありました。そのような折、玉川学園創立者である小原國芳は教育立国を叫び、地域的にも経済的にも高等学校教育の機会に恵まれなかった川辺郡久志の地に、地元の青少年の教育救済をし、また、地元住民の自立心を育み、地域振興を図るため、高等学校の設立を思い立ちます。自身の誕生の地である久志に、小原は特別な思い入れがあったようで、設立の経緯を次のように語っています。
人間、誰でもが故郷が恋しいでしょうが、私は人一倍かも知れませぬ。父も母も眠り給う故郷、幼な友達の誰彼の幾人かが生き残って居てくれる故郷。村の人達が喜んでくれる故郷。
(略)
そして不便な不便なところ、更に、青年学校も高等学校もひどい山坂越えての向うの区に在ってかわいそうな事情にある、私達の区の青少年のことを思うと、矢も楯もたまらぬのです。
(『玉川教育(1963年版)』より)
学校建設について、玉川学園久志高等学校東京久志会制作の冊子『玉川学園久志高等學校』(1981年発行)に次のような記述があります。
小原先生が出身地「久志」に高等学校を創設したいという希望は戦後6・3・3制の新学制が正式に決定される前からあった。
当時の久志は、目抜きの家々は戦災に会い、これに加えて、戦後最大とも言われた「枕崎台風」の直撃を受け、度重なる風水害で学校も半分は壊れ、村民は悲嘆のどん底にある状況であった。
(略)
小原先生が校舎建築の一切を負担し、区からは敷地の岩山開削奉仕、山林の寄贈、加えて久志出身の尾辻哲氏からは旧病院の建物等の寄贈が行われた。
郷土の地に、久志高等学校を玉川学園の分校として設立したのには、小原國芳が幼少の頃、貧困のため旧制中学に進学できなかったという生い立ちも影響しています。『全人』第20號(1951年発行)で、その強い思いを次のように語っています。
父も母も亡くなって極貧のドン底。いろいろの口惜しさに対する私の僅かばかりの発心なのです。
(略)
私を育ぐんでくれた郷里。その村の少年少女たちが少しでも高い教育が受けられたしという私の念願からなのです。
海山に囲まれ、風光明媚な久志ではあるが、一次産業に頼るのみの地域であるため、経済的な困窮から、住民の大半は義務教育を終えると働かざるを得ないのが現実でした。新設された久志高等学校は、久志周辺の住民にとって朗報となり、向学心に燃える青少年に大きな希望の光をもたらしました。
久志高等学校は、全日制と定時制の普通課程を設置。昼間、夜間の二部制授業に加え、通学距離の遠い今岳地区の生徒を対象に、今岳小学校の校舎で授業を行いました。定時制については、1952(昭和27)年に一時休校、実質上閉鎖となりました。初代校長には松山貢を配置し、初年度の新入生は、全日制が31名、定時制が38名でした。入学式のことが、前述の冊子『玉川学園久志高等學校』(1981年発行)に次のように記されています。
四月二十日、仮入学式が久志小学校の講堂で行なわれた。この日の新入学生、全日制三十一名、定時制三十八名であった。半月後の開講式入学式を目標に、浜や神社で歌や、英会話等の練習が始められ、「われらの学校は、われらの手で」をモットーに旧病院の建物を「尾辻館」と命名して、校舎改造の大労作が始められたのである。
生徒たちは、村内からはもちろん、屋久島などの離島から、また宮崎県や熊本県などの他県からも集まりました。年齢も30歳を超える者から、その半分にも満たない中学新卒者、また、学歴も旧制中学卒、専門学校卒、軍籍にあった者、実業についていた者と多種多様であり、定時制のなかには現職の小学校教員なども含まれていました。先生方は全員、東京から派遣された教員。当時の授業料は230円(公立は330円)でした。
教室は、尾辻哲氏が寄贈した病院跡を改造したものを使用(その建物は尾辻館と呼ばれました)。のちに、地域住民の奉仕と協力、生徒と教職員が一体となった労作により、1949(昭和24)年9月5日に校舎の第1期工事が完了、1950(昭和25)年に校舎が完成しました。そして、その年の10月17日に校舎落成式が行われました。校舎の第1期工事が完了して、校舎の半分にあたる3教室と講堂が完成したことにより、1949(昭和24)年秋より尾辻館を改造して塾舎とし、木製の寝台や畳を入れて、遠方から来た教員や生徒の塾(寮)として活用しました。
教育内容は本校である玉川学園と大きく異なることはなく、玉川学園の教育方針にのっとり教育が進められました。宗教を教育の根本に置き、毎週木曜日に礼拝が行われました。自由研究も同様に行われ、発表展示会では郷土研究、手芸服飾、言語、文学、音楽、美術、工芸、生物、機械、数学など、多くの分野にわたっての研究成果が展示されました。玉川大学の学生も教育実習生として半年交代で来校し、英語・理科・音楽・体育などの授業を実施。芸術教育も熱心に行われました。地元の小学校や中学校と共に運動会や音楽会も実施。県内の音楽祭に参加して、完成度の高い混声合唱に賞賛の声も寄せられました。また暮にはクリスマス「玉川の集い」を開催して住民たちと交流したり、12月24日にはグループごとに周辺の地域を回り、クリスマス・キャロリングを行うのが常でした。
1963(昭和38)年には近隣の高等学校が閉鎖となったため、入学者が激増。これに伴い、枕崎、坊泊地区からの通学者のために、路線バスが増便運行されるようになりました。また、奄美大島など、遠方からの入学希望者も増加し、単車やバイクを利用した通学者も増え、60年代は入学者数が安定。また、玉川大学への進学希望者も増加しました。
2.われらの学校はわれらの手で
久志高等学校の教育活動の特徴をあえて挙げるなら、労作は、教育活動であると同時に、彼らの生活に密着したものであったと言えます。生徒たちを取り巻く生活環境は、働かなければ生活できない状態でした。また、過疎化により、人手不足が深刻で、経済環境も恵まれたものではありません。したがって、果樹園の植林、薪炭作りなどの生産的労作や、校舎材の運搬・石垣積み・台風防災用の網作り、雨で崩れた道路の修理など環境整備の労作などが積極的に行われました。また、修学旅行費用をつくるための天草(てんぐさ)採りも恒例行事となりました。
卒業生がその時のことを次のように語っています。
生徒たちは、芋や大根、ボンタンやポンカンを作って出荷し、その売り上げを修学旅行の費用に充てたり、台風対策用の網作りによって台風の影響による被害を防いだり、校舎の修理等を行ったりしました。
さらに1970(昭和45)年頃に久志高等学校に在籍していた方たちに、その頃の生活の様子を聞いてみました。
当時生徒は各学年30数名で、合計100名程度でした。週一回の礼拝は、枕崎の教会からドイツ人の宣教師が来校して行われました。時には近くの廣泉寺に出向いて、仏教のお説教を受けたりもしました。
労作としては、天草やツワブキの採集を行いました。天草は生徒の父親の漁船を使って採集し、寒天の材料とするために乾燥させ、袋に詰めて販売。ツワブキは皮をむいて水にさらした後、袋に詰めて販売。皮をむく際に爪が黒くなりました。いずれも売上金は修学旅行の費用に充てられました。また、夏休みに入る前には、校舎の屋根瓦が台風などの強風で吹き飛ばされないように、古い魚網を屋根にかけて石で固定しました。
久志は緑生い茂る山々に囲まれ、白い砂浜と東シナ海の青い海を臨める風光明媚な地ですが、交通は不便でした。枕崎からのバスは一日5本程度。片道40~50分。そのためオートバイ通学が認められていました。また通学が出来ない生徒のために塾(寮)が設けられていました。
当時の塾生は2名。鹿児島市からの生徒が1名、宮崎市からの生徒が1名。塾舎監の教員が1名で、総勢3名での塾での生活でした。塾は校舎から少し離れた県道沿いにあり「尾辻館」と命名されていました。起床するとまず掃除。そして校舎裏の松山(聖山と呼ばれていました)まで行き、聖書を使って祈り、讃美歌を歌い、国旗を掲揚。その後、尾辻館に戻って朝食。お弁当を持って授業へ。夕食はそのほかの男子教員も加わり会食。愛吟集を使って歌い、黙祷。尾辻館には電話はなく、必要な時は道路向かいの魚屋さんの電話を借りることに。自分宛てに電話がかかってくると、その魚屋さんのお嬢さん(当時中学生)が呼びに来てくれました。
一番困ったのは言葉。鹿児島市出身者でも同じ鹿児島県なのに久志の言葉はよくわかりませんでした。また、ラジオ放送は周辺の山々に電波が遮られてしまって、かろうじてNHKラジオが聞けるだけでした。その代り、中国大陸からの電波はたくさん入ってきました。
3.久志高等学校廃校
1970年代に入って、社会の高度経済成長とともに、県下の過疎化が次第に進んでいきました。一方で、道路網が整備され、近隣には公立高校が増設されたことで、地域住民は公立高校への進学を志望するようになります。1979(昭和54)年には、生徒の確保が難しくなり、募集を停止。廃止に際し、在籍生徒24名は、鹿児島市内の高校への転校希望者1名と一身上の都合での退学者1名を除き、よりよい教育環境で高等学校教育が受けられるよう、保護者の希望を汲み、22名が東京の玉川学園高等部へ転入学しました。
『全人教育』第365号(1979年発行)の「学長動静」に次のような記述があります。
3月3日に行われる玉川学園久志高等学校の卒業式が本校行事とカチ合うため、小原哲郎園長のメッセージを録音させていただく。久志高は本年3月31日をもって休校とすでに決定。今回の卒業式をもって満30年の歴史を閉じることになるので、学長室でひとりマイクに向かわれた園長は万感胸に迫るものを抑えて、見えぬ相手に切々と語りかけられる。
久志高等学校は、廃校までの30年にわたって、909名の卒業生を世に送り出しました。そして、1979(昭和54)年7月31日付で鹿児島県より同校の廃止が認可されました。
4.写真で見る久志高等学校
参考
- ①
玉川学園久志高等学校沿革史(30数年のあゆみ)
年 | 月 | 30数年のあゆみ |
---|---|---|
1948(昭和23) | 4 | 開校(全日制・定時制普通課程) 松山貢校長就任 |
5 | 開校式・入学式(5日) 玉川学園の小学部生から大学生まで22名が参加 |
|
6 | 4月1日に遡っての設置認可(22日) | |
9 | 校地地鎮祭・地開き開始(21日) | |
1949(昭和24) | 2 | 新校舎建築工事着工(10日) |
9 | 新校舎第1期工事完了 第2期工事着工(5日) | |
1950(昭和25) | 3 | 電話架設 |
5 | 電灯架設 | |
10 | 校舎落成式(17日) | |
1951(昭和26) | 3 | 第1回卒業式(10日) |
11 | 児島英弘校長就任(8日) | |
1952(昭和27) | 3 | 定時制閉鎖 |
4 | 家庭科設置(1日) | |
1953(昭和28) | 4 | 小田原文三郎校長就任(1日) |
1954(昭和29) | 8 | 玉川学園長である小原國芳が校長兼任(16日) |
1955(昭和30) | 5 | 尾辻館大修理 水道架設 |
1958(昭和33) | 5 | 創立10周年記念式典挙行(5日) |
1964(昭和39) | 8 | 校庭掘り下げ工事 以後中学校運動場にて合同運動会 |
1965(昭和40) | 11 | 図書館建築工事着工(27日) |
1966(昭和41) | 2 | 図書館落成(10日) |
1967(昭和42) | 9 | 創立20周年記念式典挙行(28日) |
1972(昭和47) | 11 | 校舎増改築工事着工(5日) |
1973(昭和48) | 3 | 校舎増改築工事完了(9日) |
6 | 玉川学園長である小原哲郎が校長兼任(11日) | |
10 | 創立25周年記念式典挙行(29日) | |
1979(昭和54) | 3 | 第29回卒業式(3日) |
7 | 鹿児島県より廃止認可(31日) | |
1980(昭和55) | 3 | 廃校(29日) |
- ②
1968(昭和43)年9月24日に台風25号が久志を来襲。920mb(920hPa)、最大風速35m/s、瞬間風速50m/sの猛威に、校舎の屋根瓦は全面にわたって被害を受け、窓ガラスなども破損。その屋根の修復に生徒たちも参加しました。
参考文献
- 小原國芳編『全人』第20號 玉川大學出版部 1951年
- 小原國芳監修『全人教育』第219号 玉川大学出版部 1967年
- 小原國芳編『全人教育』第295号 玉川大学出版部 1974年
- 小原哲郎編『全人教育』第365号 玉川大学出版部 1979年
- 玉川学園編『玉川教育―1963年版』 玉川大学出版部 1963年
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
- 『玉川学園久志高等学校廃止認可申請書』 学校法人玉川学園 1979年
- 『玉川学園久志高等學校』 玉川学園久志高等学校東京久志会 1981年
- 『久志高等学校入学案内パンフレット』 玉川学園久志高等学校