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玉川豆知識 No.174

玉川学園キャンパス内に8つの遺跡

東京都町田市は約23,000年前の旧石器時代から近代までの遺跡が約1,000か所もある歴史の町。その町田市にある玉川学園のキャンパス内にも本部台遺跡、清水台遺跡など8つの遺跡があり、昔の人たちの暮らしぶりを垣間見ることができます。

1.玉川学園キャンパス内の8つの遺跡

玉川学園内には8つの遺跡があります。本部台遺跡(縄文時代中期)、清水台遺跡(縄文時代早期・前期・中期・後期)、聖山横穴墓群(古墳時代)、町田市608遺跡(縄文時代早期)、町田市610遺跡(縄文時代中期)、町田市611遺跡(縄文時代早期・中期、奈良・平安時代)、町田市614遺跡(縄文時代早期)、青葉区43遺跡(中世)の8か所が遺跡として登録されています。このうち聖山横穴墓群が保存整備されています。8つの遺跡のうち、ここでは3つの遺跡を紹介します。

玉川大学教育博物館に展示されている
近隣遺跡などから出土した考古資料
4年生児童の本部台遺跡の見学

本部台遺跡は縄文時代中期の集落遺跡で、場所は現在の本部棟や保健センター 健康院の建つ台地上に広がっていると考えられます。第1次発掘調査(1967年)で2軒の住居址、第2次発掘調査(1977年・1978年)で5軒の住居址、第3次発掘調査(2017年)で2軒の竪穴住居址が見つかっています。

本部台遺跡

清水台遺跡は縄文時代早期・前期・中期・後期の集落遺跡で、南口警備詰所の裏手付近に広がる丘陵地に点在してあります。1970(昭和45)年に玉川学園職員住宅用地を売却する際に、玉川学園考古学研究会が発掘調査を行い、7軒の竪穴住居址や縄文土器を発見しています。

清水台遺跡

聖山横穴墓群は大体育館を見下ろす聖山の南側斜面にあり、1,400年前(古墳時代)に生存していた人々が眠る横穴墓群が5基発掘されました。1号横穴墓の発掘は1955(昭和30)年のこと。高等部の生徒と教員が調査を行いました。さらに1972(昭和47)年にも。この時は中学部生と教員が調査を実施。1992(平成4)年には教育博物館が主体となり、専門家も加わっての発掘作業が行われました。これまでに人骨や鉄鏃(てつぞく)、土器、刀子(とうす)などが出土し、被葬者は7世紀頃に生きた地元の有力者と推定されています。

聖山横穴墓群2号横穴墓

2.玉川学園の考古学研究

前述のとおり、玉川学園キャンパスがある町田市は全国でも有数の古代遺跡が多い地域です。その地の利を生かして、玉川学園では創立間もない時期から継続して考古学研究が盛んに行われていたようです。そのことが、菅野和郎著「玉川学園の考古学研究」(『全人』第854号/2020年玉川大学出版部発行)に以下のように記されています。

玉川学園では創立間もない頃から考古学研究が盛んだったようです。遡ると、1942年4月号の『全人』には1932年に実施された聖山横穴の調査にふれた記事が掲載されています。東久邇宮殿下がご来園された1940年には、生徒が考古学研究に取り組む様子を披露したほか、旧制中学や専門部生による同好会「郷土研究部」が、学園や各地の発掘報告などを載せた部報『史葉』を1941年に発行します。興亜工業大学(1942年設立・現千葉工業大学)の校舎建設の前年には、現パラソル広場付近で生徒による発掘調査が行われました。

1950(昭和25)年に歴史考古学者である内藤政恒氏が玉川大学文学部に着任します。その頃から考古学の牽引者が次々と登場してきます。そして児童、生徒、学生たちを指導し、考古学研究を推進していきました。そのことが前述の菅野和郎著「玉川学園の考古学研究」につぎのように記述されています。

1955年には当時高等部で歴史を担当した丹治健蔵教諭が、歴史考古学者でもあった文学部の内藤政恒助教授とともに生徒を指導し、聖山の横穴墓の発掘調査を行いました。生徒の一人にのちに高等部で考古学を指導する山口高弘元教諭がいました。1953年に出版部職員となった浅川利一氏は在野の考古学者で、1958年以降、玉川の考古学の指導的立場に。

1955年の聖山横穴古墳発掘調査
1961年、中学部考古学部と浅川利一氏が
町田市の広袴遺跡を発掘調査

1967(昭和42)年に本部台遺跡の発掘調査が行われました。その発掘調査をきっかけに玉川学園考古学研究会が発足しました。玉川学園考古学研究会の組織構成については、菅野和郎著「玉川学園における考古学研究」(『全人』第821号/2017年玉川大学出版部発行)につぎのように記載されています。

高等部の自由研究考古学部をベースに、浅川氏を顧問とし、大学生・短期大学生と高等部生を会員、中学部生と考古学に興味のある小学部生を準会員として活動する、オール玉川の独特な組織でした。なお通信教育部では、浅川氏を顧問とする日本古文化研究会(1966年~1990年)が課外で活動していました。

玉川学園考古学研究会の旗
1972年、中学部生徒による聖山横穴墓群
第3号墓の発掘調査

玉川学園考古学研究会が発掘に携わった遺跡の数は9箇所。この研究会は1967(昭和42)年の発足時から1980(昭和55)年頃まで、町田市内の遺跡発掘調査をいくつも手掛けていて、重要な役割を果たしていたといわれています。

1969年、町田市内の御嶽堂遺跡の発掘現場を訪れた小原國芳

やがて遺跡の発掘については行政が中心で行うといった社会の流れもあり、玉川学園考古学研究会で学生、生徒、児童が一緒に発掘調査する機会が減り、中学部と高等部は自由研究での活動に変わっていきました。そのことが前述の菅野和郎著「玉川学園における考古学研究」につぎのように記されています。

大学で考古学を専攻した山口高弘氏が高等部に(1969年)、考古学研究会の卒業生の多賀譲治氏が中学部に(1972年)、教員として着任。考古学の専門知識を持つ両教諭のもと、生徒たちは自由研究で盛んに表面採集に出かけたり、合宿で発掘調査を行ったり、遠方の遺跡見学に行くこともありました。その成果は個人研究と共に、高等部展、中学部展で発表されました。

高等部自由研究「考古学」
中学部自由研究「考古学」

なお、玉川学園考古学研究会の軌跡についての企画展が、「考古資料展―玉川学園考古学研究会の軌跡―」として、2017(平成29)年に玉川大学教育博物館において開催されています。会期は10月16日から12月17日まででした。

考古学研究について、現在、学内では残念ながら活動が途絶えてしまっているという状況です。そのような中、2021(令和3)年に、縄文時代の遺跡を新たな場所へ移設する労作が行われました。この縄文時代の遺跡は、1968(昭和43)年に、町田市内の田端遺跡の敷石住居址を、浅川利一氏の指導の下、大学生や高等部生たちによる玉川学園考古学研究会が発掘調査し、通信教育部夏期スクーリング期間中に、日本古文化研究会に参加していた通大生たちが当時の女子短期大学校舎(のちの大学9号館)の庭に移設したものです。そして2021(令和3)年6月より大学9号館の解体工事が始まったことから、その住居址をK-12経塚校舎とSTREAM Hall 2019の中間地点に再移設。再移設労作には、教育学部教育学科の石井恭子教授と市川直子准教授の両ゼミの学生たちが参加し、教育博物館の菅野和郎教授から田端遺跡のことや測量のやり方などの指導を受け、現場にて作業を行いました。

関連サイト

参考文献

  • 小原國芳著『師道』 玉川大学出版部 1974年
  • 小原哲郎監修『全人教育』第527号 玉川大学出版部 1992年
  • 小原芳明監修『全人』第819号 玉川大学出版部 2017年
  • 小原芳明監修『全人』第854号 玉川大学出版部 2020年
  • 小原芳明監修『全人』第862号 玉川大学出版部 2021年
  • 山口髙弘「聖山古墳群の発掘」(『全人教育』第538号 玉川大学出版部 1993年 に所収)
  • 菅野和郎「玉川学園における考古学研究」(『全人』第821号 玉川大学出版部 2017年 に所収)
  • 菅野和郎「玉川学園の考古学研究」(『全人』第854号 玉川大学出版部 2020年 に所収)

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