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玉川豆知識 No.180

江戸城の石垣の石材で作られた坂下門の石垣

正門を入り進んで行くと右手に石垣が見えてきます。この石垣は江戸城から運ばれてきた石でつくられたもの。そしてそこには「一日不作 一日不食」の文字が刻まれています。

正門を入り玉川池を過ぎて上り坂になったところの道路を挟んだ両側に石垣がありました。そこは坂下門と呼ばれ、玉川学園開校当時の正門です。

左側にある石垣には
「玉川学園」の文字が刻まれています
右側にある石垣には
「一日不作、一日ふ食」の文字が刻まれています

1966(昭和41)年の1月、江戸城の石垣を用いて校門の改築作業が開始されました。そして百個以上の石材を使用してそれを積み上げ、坂下門の石垣が完成しました。

この石材は江戸城の石垣で、地下鉄工事でお堀浚渫(しゅんせつ)の際に取り除かれ、現在の竹橋付近から引き上げられたものを宮内庁から無償で譲り受けたものだそうです。また、その石材には、諸大名の舟印などを刻んだ刻印が20以上ある、と資料には残されています。

そのことが、『全人』第666号の「故きを温ねて(ふるきをたずねて)」に次のように記されています。

東京オリンピックが行われた二年後の昭和四十一年一月、江戸城の石垣を用いて校門が改築された。高度経済成長のさなか、皇居外堀溜池付近での地下鉄工事中に掘り出された石垣を譲り受けたとのことである。
新しくなった校門に、改築前と同様「一日不作 一日不食」と刻まれた碑文がはめ込まれた。

なお、左側にあった石垣は「大学教育棟 2014」を建設するために解体されましたが、将来築造する構想もあり、学内に保管されています。

【参考】一日不作、一日不食

正門から見て右側の今も残る石垣には、黒御影石がはめ込まれており、そこに創立者小原國芳の直筆で「一日不作、一日ふ食」の文字が刻まれています。この言葉は、玉川学園が創設された当時には、経塚山(三角点)の南西斜面にあったひばりケ丘と呼ばれていた畑の中央に立てられていた太い木柱に書かれていました。それが1935(昭和10)年当時には石垣の門に木彫(文字は金色)で、そして1966年(昭和41)年正月、坂下門が造り直された際には現在の黒御影石にこの言葉が彫られました。

経塚山(三角点)の南西斜面にあったひばりケ丘

「一日作さざれば、一日食らわず」(いちにちなさざれば、いちにちくらわず)という字面から、「働かざる者食うべからず」という意味に捉えがちですが、そうではありません。これは、中国唐の時代の有名な禅僧、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉です。

年を取っても毎日毎日の労作を欠かさない百丈禅師の健康を気遣った弟子たちが、ある日、禅師の農具を隠してしまいます。ところがその日から禅師は食事に手をつけなくなりました。心配した弟子たちが「禅師はこの三日間、お食事をなさいませんでしたが、どうしてでございますか」と尋ねたとき、禅師が語った言葉が、「一日作さざれば、一日食らわず」でした。

「人は、労働することが一番大切なことであり、それができなければ食べることができない」と自らを律する言葉です。そして、勤労そのものの尊さを語るこの言葉は、労作教育に燃えてこの丘を切り拓いた創立者と、創立者とともにこの地を耕してきた先輩たちの合い言葉でもありました。

参考文献

  • 小原國芳著『玉川塾の教育』 玉川大学出版部 1976年
  • 白柳弘幸「故きを温ねて」(『全人』第666号 玉川大学出版部 2004年 に所収)
  • 白柳弘幸「史料は語る」(『全人』第878号 玉川大学出版部 2023年 に所収)
  • 「玉川発見伝⑩ 江戸城から運ばれた石で組まれた坂下門」(『全人』第814号 玉川大学出版部 2017年 に所収)
  • 『玉川学園の教育活動 玉川大学の教育活動(2008~2009)』 玉川学園 2008年
  • 『写真でみる玉川学園75年』 玉川大学教育博物館 2004年

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