玉川豆知識 No.187
玉川の丘に設置されている世界的な宗教哲学者である波多野精一の像
大学1号館と旧大学2号館の間にある植え込みの中に、世界的な宗教哲学者である波多野精一の像があります。この像は1961(昭和36)年、本学初の鉄筋校舎である文学部校舎(後の大学2号館)の完成に伴い、同年12月に大学の美術部の学生たちの労作によって制作されたものです。その後、1973(昭和48)年6月にブロンズに鋳造されました。
1.波多野精一と小原國芳
波多野精一(1877年~1950年)と玉川学園創立者小原國芳の出会いは、1917(大正6)年まで遡ります。小原が京都帝国大学で学んでいた時の卒業論文の審査委員の一人が波多野でした。ちなみにこの時、小原は「宗教による教育の救済」という題目で1,500枚に及ぶ卒業論文を執筆。この卒業論文は後に加筆・修正されて『教育の根本問題としての宗教』というタイトルのもと玉川大学出版部より刊行されました。


1947(昭和22)年に旧制最後の大学として玉川大学を設置すべく準備を進めていた小原は、設置の前年(終戦の翌年)、岩手県に疎開していた波多野に招聘の手紙を送ります。最初は応諾を躊躇していた波多野でしたが、繰り返し寄せられる書簡に宿る小原の溢れんばかりの情熱と心尽くしに気持ちが動かされ、快諾の決意をします。こうして波多野は1947(昭和22)年に玉川大学教授に迎えられ、学園内に建てられた12坪ほどの住居に住むことになりました。新制玉川大学の認可を受けた1949(昭和24)年には『西洋哲学史』や『宗教哲学』などの科目を担当。この年、二代目玉川大学長に就任。しかし残念ながら波多野の玉川の丘での日々は長くは続きませんでした。


翌年の1950(昭和25)年1月17日、惜しまれつつ72歳で逝去。直腸癌でした。波多野の葬儀は玉川学園の学園葬として1月19日に礼拝堂で行われました。死後も波多野と玉川学園の結びつきは強く、私物などが遺族から玉川学園に寄贈されています。特に膨大な量の書物は波多野文庫として、玉川大学教育学術情報図書館で保存。波多野は早稲田大学、東京帝国大学、京都帝国大学でも教鞭を執り、京都帝国大学名誉教授でもありました。

当時の波多野文庫
本学の機関誌『全人』の第12号(玉川大學出版部/1950年発行)を「波多野博士追悼號」として制作。1970(昭和45)年1月17日には、本学において「波多野精一先生の20周忌記念礼拝・記念追悼会」が行われました。


2.玉川の丘に設置された波多野精一像
波多野精一像(以下「博士像」という。)が作られたのは、波多野が亡くなってから約10年後の1961(昭和36)年。学生たちの労作によって作られ、文学部校舎(後の文学部第2校舎、大学2号館)前の道の向こう側に設置されました。








やがて博士像が設置されていた場所には、本田技研の副社長であった藤沢武夫から寄贈されたヤシの木が植えられることなりました。ちなみにこの寄贈された67本のヤシの木は、ワシントン種などで、八丈島より到着しました。

時を同じくして、セメント像であった博士像をブロンズに鋳造することとなりました。そして、そのブロンズ像の除幕式が、現在、像が設置されている場所にて、1973(昭和48)年6月25日に行われました。除幕式はブラームスの「学生歌」でスタート。そして小原の挨拶の後、博士像をおおった幕が取り除かれました。そして波多野の愛誦歌「とこしえの故郷」の合唱。つづいて波多野のお弟子さんであった松村克己の短い講演と遺族の方の挨拶。最後は校歌を歌って式は終了となりました。


博士像は当初設置されていた場所から、文学部第1校舎(現在の大学1号館)と文学部第2校舎(後の大学2号館)の間にある植え込みの中に移され、現在に至っています。





「波多野精一像」の台石には小原國芳の書で、次のように刻まれています。

関連リンク
参考文献
- 小原國芳監修『全人教育』17巻 玉川大學出版部 1947年
- 小原國芳監修『全人』第12号 玉川大學出版部 1950年
- 小原國芳監修『全人教育』 玉川大学出版部
第245号、第246号、第247号(1970年)、第286号、第288号(1973年)、
第327号(1976年) - 波多野精一著『西洋哲学史要』 玉川大学出版部 1977年
- 波多野精一「小原君」(『全人教育』18巻第1号 玉川大學出版部 1948年 に所収)
- 小原國芳「波多野精一先生との出会い」(『全人教育』第338号 玉川大学出版部 1977年 に所収)
- 中森善治「波多野精一先生の追憶――玉川大学誕生のころ――」(『全人教育』第463号 玉川大学出版部 1987年 に所収)
- 玉川学園編『玉川教育: 玉川学園三十年』 玉川学園 1973年