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玉川豆知識 No.211

卒業生一人ひとりに直筆の色紙や軸を贈る

小原國芳は高等部や大学の卒業生全員に記念品として渡す色紙や軸を、一枚一枚自らが書いていました。また、小原は幼稚部、小学部、中学部、高等部、大学(通大含む)、女子短期大学、大学院の卒業生全員の卒業証書にも自らサイン。夏休みにはスクーリングで登校する通信教育の学生たちのために色紙書きを行っていました。

小原國芳は理事長、学長、学園長として多忙な毎日を過ごす中、少しの時間を利用して、色紙や掛軸、卒業証書、著書などへの文字やサイン書きを行っていました。このことは1977(昭和52)年12月に小原が亡くなる直前まで続けられていました。

病床の時も色紙を書いていたことがあったようです。例えば、1974(昭和49年)の『全人教育』第298号の「身辺雑記」に、小原がつぎのように記しています。

大きい字を書くのは宜しいと、お医者さんの許し。小学生たちへの約束の色紙。「玉川っ子」を大きく書きました。午前午後、一時間ずつ、二日間で二百枚。
とても喜んでくれたそうです。一人一人が真心こめて、お礼の手紙をくれます。病床で感謝して読んでいます。時々、泣かされたり。

1972(昭和47年)の12月に「夢」の掛軸を1,700枚書いた時のことを、『全人教育』第282号の「身辺雑記」で、小原はつぎのように語っています。

春の大学卒業生たちに表装して記念に贈るものを、ゼヒ、年内に書き上げて表具屋に届けてくれと。
三日かかりました。
年一年、疲れます。二百枚も書くと、肩がひどく凝ります。受ける人は一人一人だし、これでも精一杯、念入りに書きあげたいのです。やはり、三枚に一枚くらいずつマズいのが出ます。

卒業生全員の卒業証書へのサインは大変な労作でしたが、楽しい作業であったと、1972(昭和47年)の『全人教育』第273号の「身辺雑記」に、小原がつぎのように記しています。

毎年、中々の労作です。楽しい中に。幼、小、中、高、短大、大、大学院、通大、そして、分校のカゴシマの久志高校。矢崎総業との産学一体の富士高校、計二千三百枚か。これでも精一杯でした。
「弘法は筆を選ばず」とはいかず、筆が中々でした。日に、三百枚が漸くでした。とうとう、七、八回になりました。
学長当番係の心からなるマッサージのオカゲで、大分、助かりましたが、それよりも百枚も越すと、目がかすむのです。

学長当番係とありますが、我々はおやじ(小原國芳)当番と呼んでいました。おやじ当番だった学生が、『すすきっぽ』(1966年第7号)に次のような文章を載せています。

一番辛かった用事は書き物である。夏休みの通大生への為の色紙書き、講演旅行へ持って行く本(講演した後で販売する本)へのサイン、卒業期の幼稚園から大学生まで一人一人の卒業証書に対してのサイン等が少しこたえた。我々の寝る部屋が仕事場になり毎晩十二時過ぎまでやった。墨は事前にすっておき、その作業は印押し係、受け渡し係、乾かし係と分担。おやじは書くのが速く、熟練した人が印を押す速さと同じである。おやじのあの長い白髪、太い首、頑丈な腕を今になってしみじみ思い出す。

小原國芳は県人会(同窓会)に参加する際などにも直筆の色紙をお土産に持参していました。また、寄付をしてくださった方々にも直筆の色紙をお礼に贈っていました。1970(昭和45年)の『全人教育』第247号の「身辺雑記」で、小原はプールなどの築造のために寄付して下さった方々へのお礼の色紙書きについて次のように述べています。

少なくとも、色紙五千枚、茶がけ二千枚、半折、大判合せて一千枚の覚悟です。色紙でも、一分間に三枚となると全く、筆工機械みたいなようなものです。だんだん、少しずつは手も上がるようで、十枚に一枚ぐらいずつは自分ながら、ほれぼれするものも出ます。
大隅半島の電信屋以来、字を書くのがスキになりました。でも、原稿を書くのが、だんだん、おっくうになって来ます。
年なのでしょう。

小原は色紙に、タの部分が一角多い「夢」の文字のほか、玉川モットー、教師訓、家庭訓、 さらには和歌や俳句なども書かいていました。玉川モットーを書くことについて『全人教育』 第332号の「身辺雑記」で小原はつぎのように語っています。

玉川モットーは大変です。みっしり四行ものです。行間がうまく行かぬのです。やはり、二枚に一枚はダメになります。

小原は、自身が亡くなる4か月前の1977(昭和52)年8月、通大生のために色紙を書いていた時のことを、『全人教育』第343号の「身辺雑記」につぎのように記しています。実はそのちょうど1年前に、小原は学長室の玄関のところで滑って転倒。右肩と肘を強打。レントゲンで調べた結果、骨にひびが入っているとのことでした。

通大生諸君が思い出の要求です。中には、校長先生、教頭先生、教育長さんたちへおミヤゲらしいです。
日に五百枚位は平気で書けた私も、この頃は五十枚も書くと疲れます。特に、先年、ローカで倒れて右肩を強打してから、とても右手が十分に動かなくなりました。
(略)
何十年たって、今頃、悔やまれます。なぜ、若い頃の恩師たちの御筆跡を頂いておかなかったかと!
でも、書く私も、えらくならねばなりませぬ。一切は人です。人!大いに己を高めねばなりませぬ。自ら、いい気品も正直に表れましょう。

その他小原は、夏期スクーリングで学ぶ通大生のためにその場で色紙を書いて直接渡したり、講演先で購入された本にサインをしたりといったこともされていました。

1969(昭和44)年6月、
小原國芳私邸(現小原記念館)「お客の間」にて
大学生との懇談会
約2,000本の扇子に揮毫

参考文献

  • 小原國芳監修『全人教育』 玉川大学出版部
     第224号(1968年)、第247号、第253号(1970年)、
     第260号(1971年)、第273号(1972年)、第282号(1973年)、
     第298号(1974年)、第320号、第327号(1976年)、
     第331号、第332号(1977年)
  • 塾編集委員会編『玉川学園 塾の歩み五十五年』 玉川大学・玉川学園女子短期大学塾 1985年

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