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玉川豆知識 No.214

聖山の中腹で誕生した校歌

1929(昭和4)年4月4日の玉川学園創立準備職員会の席上で、小原國芳から「8日の入学式に間に合わせたいので、できればこの会議中に作曲してほしい」と田尾一一による歌詞を渡された岡本敏明は、ピアノも何もない聖山を散策しながら一時間ぐらいで玉川学園校歌を作曲したと言われています。講談社が1982(昭和57)年に出版した『日本の唱歌』の編者である金田一春彦氏が「あとがき」で「玉川学園の校歌などは、日本一の校歌ではないかと思ったりいたします」と語っています。

1.「その力強い、しかも宗教的香りの高い名歌に全く魅せられてしまいました」

玉川学園の校歌を作詞したのは田尾一一(たおかずいち)。田尾は、小原國芳が香川県師範学校で教鞭を執っていた当時の教え子であり、玉川学園創立時には中学部、専門部の教頭格でした。田尾は後に東京芸術大学音楽学部長に就任。校歌が誕生した当時の経緯について、田尾は次のように語っています。

小原先生のお宅の応接間兼食堂に小判型のテーブルがあって、それをとりまいて、毎夕新しい学校の構想をめぐって先生からお話があった。
  (略)
そういう雰囲気の中で、校歌が生まれた。私はその生きて動いているアイディアをそのままとらえるとでもいうような、そんな心もちでそれをまとめた。

そして、田尾が手がけた歌詞にメロディを付けたのが岡本敏明。玉川学園創立の年に東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)高等師範科を卒業したばかりだった岡本は、音楽の教員として採用されました。そして1929(昭和4)年4月4日の玉川学園創立準備職員会の席上で、小原から「8日の入学式に間に合わせたいので、できればこの会議中に作曲してほしい」と田尾による歌詞を渡され、ピアノも何もない松林の中を散策しながら一時間ぐらいで作曲したのだということです。慌ただしいようですが、学園創成期に集まった関係者たちの情熱が伝わってくるエピソードです。

田尾一一
岡本敏明

岡本は、田尾による歌詞を渡された時のことを、機関誌『学園日記』創刊号(玉川学園出版部/1929年6月発行)に次のように記述しています。

小藤おじさんから「元気のいいのを」という注文で校歌作曲の依頼をお受けしたのが4月4日の夕方。勿論新参の私でしたので作詞者田尾先生を知るよしもなかったのですが、歌詞を通して、真摯な人格者としての田尾先生の風貌を想像するに難しくはありませんでした。
  (略)
私は田尾先生の歌を一読するに及んで、すっかり感激してしまって、校歌を作曲せねばならぬという責任感さえも忘れて、その力強い、しかも宗教的香りの高い名歌に全く魅せられてしまいました。

2.「私はこの歌に初めからこの曲がついて居ったような気がして来ました」

岡本は、曲が浮かんできた時のことを、上述の『学園日記』創刊号に次のように記しています。

私は直ちに原稿を持ってその時の事務所であった松本先生のお宅を飛び出して、聖山の中腹に立ちました。黄昏が私の周囲を取巻こうとする時、間もなく我等が学び舎となるべき新しい校舎に呼びかけるようなつもりで、声高く歌い出したのです。
  空高く 野路ははるけし
  この丘に 我らはつどい
  わがたまの 学び舎もらん
旋律は聖山の空気を振わせて、何のこだわりもなく、たやすく流れ出たのでした。
二度三度と繰返し歌っている中に、私はこの歌に初めからこの曲がついて居ったような気がして来ました。これは詩と曲とが完全に融け合ったためなのです。私は早速駆け戻って、手製の五線紙に今のメロディを書き込んだのです。

玉川学園創立の年の4月4日に上述のように誕生した玉川学園校歌。その校歌は、その日のうちに、先生方によって歌われました。そのことが、機関誌『全人教育』第341号(玉川大学出版部/1977年発行)に次のように記されています。

小原先生を中心に楽しい夕餉のあとで校歌の御披露に及びました。「なかなかいい」との小原先生の賛辞をいただいて子供のように喜んで、其の夜は先生方に度々歌っていただきました。しかも「開校式までには、ゼヒ自信のある歌い方をしたい」というので、小原先生の発案で、輪番で独唱しながらの猛練習。音程のあやしげな先生、節まわしのぎこちない先生、奇声を発する先生などで、一通りおぼえていただくまでは容易なことじゃありませんでした。でもあとではどうやらまがりなりにもみんな歌えるようになって頂いた時の嬉しさ!

3.「校歌には、小原國芳の新しい学校への思いがあらわされていた」

1929年(昭和4年)の校歌
ト長調で書かれていた

一、空高く 野路は遥(はる)けし
  この丘に 我らは集い
  わが魂(たま)の 学舎(まなびや)守(も)らん
二、星あおき 朝(あした)に学び
  風わたる 野に鋤(すき)振う
  かくて我ら 人とは成らん
三、神います み空を仰げ
  神はわが 遠(とお)つみ祖(おや)
  わが業(わざ)を よみし給わん

校歌には、その学校の教育理念が込められているものです。玉川学園の校歌は、まさに玉川の丘で理想の教育を始めようとする小原國芳の、新しい学校への想いがあらわされた一曲となっています。機関誌『全人』第760号(玉川大学出版部/2012年発行)の「玉川の丘めぐり」(21)に次のような記述があります。

校歌には、この地で真(まこと)の教育を始めようとする創立者・小原國芳の、新しい学校への思いがあらわされていた。
一番の「空高く……」では、聖山の一番高い所からの相模平野を見ての風景があらわされた。二番の「星あおき……」では、朝のうちは勉強と読書、午後は労作によってバランスのとれた人間教育を行う、という意図が読み取れる。労作については象徴的に“野に鋤を振う”とした。
三番の「神います……」では、キリスト教のみならず、日本の神にも通じるようにしたと言う。多くの神話で神が天地をつくった。この神の末裔がわれわれ人間であると、田尾は後年語った。

4.「玉川学園の校歌などは、日本一の校歌ではないかと思ったりいたします」

玉川学園の校歌は、玉川学園関係者以外からも高い評価を得ています。講談社が1982(昭和57)年に出版した『日本の唱歌』は一般的な唱歌に限定せず、寮歌や応援歌、校歌なども取り上げた唱歌集となっていますが、この中で編者である金田一春彦氏が「あとがき」で次のように語っています。

誰でも、自分の学校の歌を愛します。と言って、寮歌・校歌を片っ端からあげることは出来ません。それで、かりにその範囲を、その学校の学生でない人でも知っていて、歌うことのある学校歌ということに限定しました。
  (略)
単に音楽的にすぐれているというならば、ここにあげた歌以上の歌もたくさんありそうです。たとえば編者の一人の好みで言うなら、玉川学園の校歌などは、日本一の校歌ではないかと思ったりいたします。

5.「卒業生の集りなどでも、最後に校歌を歌わないとおさまりがつかないというぐあいである」

田尾は、校歌について次のように述懐しています。

校歌は民謡などと類する性質のもので、叙情詩のように主観的ではない。だんだん歌われているうちに、多くの人の歌になり、ますます客観性を得てくる性質のものである。

『愛吟集』
『愛吟集』

岡本も、機関誌『全人』第197号(玉川大学出版部/1966年発行)で、校歌について次のように述べています。

玉川では、毎朝、朝会に校歌が歌われる。小学部、中学部、高等部と、それぞれ朝会のはじまる時間のずれがあるから、まず、小学部の丘からこどもたちの元気な校歌ではじまって、中学部の丘へ、高等部の丘へとつぎつぎに歌いつがれて行く。十年一日の如しのたとえがあるが、玉川では四十年一日の如く、雨の日も風の日も、毎朝、校歌が歌われている。これは世界に例のないところであろう。
それが、強いられた形で歌わされるのであったら、決して好ましいとはいえないが、玉川ではきわめて自然に歌われ、その都度、感動をもって歌われている。しかも、卒業生の集りなどでも、最後に校歌を歌わないとおさまりがつかないというぐあいである。

朝会
朝会

参考文献

  • 小原國芳編『学園日記』創刊号 玉川学園出版部 1929年
  • 小原國芳監修『全人教育』第341号 玉川大学出版部 1977年
  • 岡本敏明「感動の音楽 生活の音楽―玉川の丘にとよもす夢の合唱―」(『全人』第197号 玉川大学出版部 1966年 に所収)
  • 白柳弘幸「故きを温ねて(2)玉川学園の校歌などは日本一の校歌ではないかと思ったりいたします」(『全人』第635号 玉川大学出版部 2001年 に所収)
  • 白柳弘幸「玉川の丘めぐり(21)時代を超えて歌い継ぐ玉川学園校歌」『全人』第760号 玉川大学出版部 2012年 に所収)
  • 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌(下)』 講談社 1982年

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