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玉川豆知識 No.215

かつて「おやじ当番」という当番がありました

玉川学園創立者である小原國芳は、児童、生徒、学生、教職員から「おやじ」と呼ばれていました。そのおやじの家で、電話の応対やお客様の接待・案内などを行う生徒や学生を「おやじ当番」と呼んでいました。

1.おやじ当番とは

通学生とは異なり塾生にはいろいろな当番が割り当てられていました。例えば「校長当番」もその一つです。「校長当番」は後に「おやじ当番」と呼びかえられました。また、「小母さま当番」というのもありました。小原國芳の奥様である小原信のことを、児童、生徒、学生、教職員たちは親しみを込めて「おばさま」と呼んでいました。「小母さま当番」は女子学生、女子生徒が担当しました。

小原信(左)と小原國芳
子どもたちに囲まれたおやじ

おやじ当番が行うことは、朝、牛舎へ牛乳を取りに行くこと、小原國芳宅の各所の清掃および庭そうじ、色紙書きおよび講演先で販売する本や卒業証書へのサインのお手伝い、お客様へのお茶出しなどの接待、お客様の学内参観の案内など多岐にわたっていました。

卒業証書へのサインのお手伝い
大学コスモス祭見学に同行

おやじ当番について、潟山盛吉氏との共著『身近かで見た小原國芳先生―体験的小原國芳論』(玉川大学出版部/2024年発行)の中で、石橋哲成名誉教授がつぎのように述べています。

小原先生の自宅は学園創立当初から礼拝堂の下、学園の中心にありました。先生の自宅の玄関を入ると、客間につながる8畳の部屋があり、そこには大学の男子塾生たちが原則的に二人ずつ寝泊まりをしていました。昼間は大学の授業へ出席しますが、朝は他の塾生たちと一緒に6時に起床し、聖山礼拝にも出席し、朝食が終わったところで小原先生宅に戻り、玄関等を清掃したり牛舎へ牛乳を取りに行ったりしました。また夕食も他の塾生たちと一緒に塾食堂で済ませ、それ以降はまた小原先生宅に戻り、そこで次の日の授業の予習をしたり、小原先生のお手伝いをしていました。大学生がいない昼間の小原先生宅のお手伝いをするのが、実は中学部の男子塾生たちに与えられた特権でした。

1934(昭和9)年の玉川キャンパス
小原國芳宅

『すすきっぽ』(1966年第7号)に佐藤靖彦氏が「おやじ当番」の経験談を以下のように記述しています。

一番辛かった用事は書き物である。夏休みの通大生への為の色紙書き、講演旅行に持って行く本(講演した後で販売する本)へのサイン、卒業期の幼稚園から大学生まで一人一人の卒業証書に対してのサイン等が少しこたえた。我々の寝る部屋が仕事場になり毎晩十二時過ぎまでやった。墨は事前にすっておき、その作業は印押し係、受け渡し係、乾かし係と分担。おやじは書くのが速く、熟練した人が印を押す速さと同じである。おやじのあの白い髪、太い首、頑丈な腕を今になってしみじみ思い出す。

色紙書き
卒業証書へのサイン

2.中学部のおやじ当番

中学部塾生のおやじ当番について、前述の『身近かで見た小原國芳先生―体験的小原國芳論』の中で、石橋哲成名誉教授が、自身の体験を通してつぎのように語っています。

普通の日は、朝食が終わり、みんなで部屋の掃除をしたりして、8時になると登校太鼓が鳴り、中学部へ登校しましたが、オヤジ当番に当たった日は、朝、他の塾生たちが中学部へ出かけるとき、上級生と下級生の二人からなるペアは、礼拝堂下の小原先生のお宅へと出かけていきました。その日は、中学部校舎ではなく小原先生の家が学校であり、小原先生と小原先生の奥様が先生でした。

さらにつぎのようにつづきます。

小原先生宅の玄関を入ると、先ほども少し触れたように、客室へと繋がる8畳間があったのですが、その部屋には、障子で隔てられた廊下側に大学生二人の学習机が並んで置かれていました。中学生のオヤジ当番は、用事のないときはその大学生たちの机を使わせてもらって、学校から与えられた「手引き」に従って自学し、お客様が来られると、客室へ案内し、台所へ行って小原先生の奥様にお茶を入れてもらい、お客様にお出しし、おば様の指示に従って、小原先生を書斎の方へ呼びに行くこともありました。

小原國芳宅にて
お客様の学内参観に同行

1960(昭和35)年に中学1年生でおやじ当番を体験された和田敏彦氏が、その体験談を以 下のように記しています。

今日は私と今泉さんが「おやじ当番」だった。
午前中は、お客さまはあまり来られなかったが、参観の方が三人、おやじの家へ寄られた。その方々にすぐついて行って中等部を案内した。できるだけわかりやすく説明しようと思っていたのだが、あまり充分な説明はできなかった。午後は四人のお客さまがみえたので応接間へお通しして、お茶をさしあげた。
夕方、おやじの家で職員会があり、大勢の先生方がお客の間へ集まられた。この先生方にもお茶をまわした。
何しろ初めてなので、どんなにしたらよいのか分からなかったが、できるだけ失礼にならぬように心がけた。この学校へきて、こういうことが学べるのは有難い気がした。

小原國芳宅のお客の間が学長室の役割を果してきたとも言えます。しかし、1963(昭和38)年に工学部校舎が完成した際に、その中に学長室ができました。学長室ができたことにより、学長室での仕事も多様化し、中学生では対応できないことも多くなり、中学生のおやじ当番は廃止となりました。

参考「おやじ」の起源

「おやじ」の起源については、諸星洪氏著『玉川のおやじ』(玉川大学出版部/1969年発行)につぎのように書かれています。

「オヤジ」というアダナを最初につけたのは僕と斎藤秋男君であると思う。斎藤君は最初ファターなどといったが、やっぱり日本式に「オヤジ」の方がいいよ、ということでオヤジにしてしまった。もっともこれは陰で言っていたことで、オヤジ自身何時の間にか、オヤジと称するようになったのは何時のことか知らない。それにしても、僕自身にとってそのオヤジが、ほんとうのオヤジ以上の世話になってしまうオヤジになろうとは、当時夢にも思わなかったことだ。

参考文献

  • 潟山盛吉、石橋哲成著『身近かで見た小原國芳先生―体験的小原國芳論』 玉川大学出版部 2024年
  • 諸星洪著『玉川のおやじ』 玉川大学出版部 1969年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園編『玉川教育―玉川学園三十年―』 玉川大学出版部 1960年
  • 玉川学園編『玉川教育―1963年版―』 玉川大学出版部 1963年
  • 塾編集委員会編『玉川学園 塾の歩み五十五年』 玉川大学・玉川学園女子短期大学塾 1985年

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