玉川豆知識 No.216
北原白秋と小原國芳
「からたちの花」「この道」「ペチカ」「城ヶ島の雨」などの誰もが知る童謡を次々と生み出した北原白秋。その白秋と新教育の開拓に情熱を燃やしていた小原國芳との意外な接点。その出会いは昭和初期に遡ります。
1.「玉川学園運動会歌」
青雲はれて そよぐこずえ
見よ朝だ 風が笑う
フレフレ玉川
飛べよ走れ われら
風と走れ 玉川フレフレ
秋の青空の下で行われる玉川学園運動会(現在の体育祭)で歌い継がれている「玉川学園運動会歌」。この「玉川学園運動会歌」が初めて歌われたのは、1933(昭和8)年の第4回運動会でした。この歌の作曲を担当したのは玉川学園校歌や「どじょっこ ふなっこ」の作曲者である岡本敏明。そして作詞は、童謡作家の北原白秋。初め「成城学園運動会歌」として作詞されたこの歌は、白秋の配慮で、後には「玉川学園運動会歌」としても歌われることになりました。成城学園では「フレフレ成城」、玉川学園では「フレフレ玉川」と歌われました。なお、「運動会歌」は、1933(昭和8)年、小原國芳が成城学園の校長を辞した後は、ほとんど玉川学園だけで歌われるようになり現在に至っています。
「玉川学園運動会歌」が初めて歌われた第4回玉川学園運動会に、白秋は父兄として参加しています。そのことが、『全人』第755号(玉川大学出版部/2011年発行)に掲載された白柳弘幸著「歌い継がれて80年『北原白秋と運動会歌』」でつぎのように語られています。
この年、白秋は学園の運動会を初めて参観。観覧席から玉川っ子たちの歌声を聞かれたに違いない。学園史料室に残されている一番古い歌集である『塾生愛吟集』(1937年版)では、「玉川學園運動歌」とある。
創立者・小原國芳のよき理解者であった白秋は、創立間もない本学園に自分の子どもを預けた。その縁で「玉川學園運動歌」が生まれた。1932、33年に本学園で行われた労作教育研究会では特別講師を務めた。
白秋は生涯で、国内はもとより台湾など外地にあった学校も含め、数多の校歌や応援歌の作詞を手がけた。しかし、一学校の運動会のための作詞は数えるほどで、作詞されて80年近くなった今も歌い続けているのは本学園のみのようだ。
2.北原白秋
北原白秋といえば明治から昭和にかけて活躍し、「からたちの花」や「ペチカ」などで知られる詩人・歌人・童謡作家です。その一方で白秋は、数多くの校歌や応援歌の作詞も手がけていました。また彼が活躍した時代は、大正自由教育運動が勃興した時期でもありました。それまでの教師中心の注入主義的な旧教育から、子供の関心や感動を大切にする教育へ。当時、そうした理想を掲げて設立された学校は数多く、玉川学園もその一つといえます。
同じような動きは文芸の分野でも顕著でした。象徴的な出来事が、日本における児童文化運動の父とされる鈴木三重吉による児童文芸誌『赤い鳥』の創刊。1918(大正7)年のことです。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』『杜子春』や有島武郎の『一房の葡萄』、新美南吉の『ごん狐』などの文学作品も、この『赤い鳥』に掲載されて世に出ました。そしてこれら文学作品と同様に、社会から大きな反響を呼んだのが童謡だったのです。当時の唱歌や説話は政府によって作られたものであり、そこからは子供の素直な心や芸術的な香気は感じられませんでした。そうした中、『赤い鳥』で「からたちの花」を発表したのが白秋でした。白秋らが発表した童謡の数々は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになり、一大潮流となっていきました。現在、私たちが童謡と認識している曲の数々は、この時期に作られたものが少なくなく、まさに童謡の黄金期といえました。白秋は、その中心人物の一人でした。ちなみに日本童謡協会が1984(昭和59)年に7月1日を「童謡の日」と定めましたが、これは『赤い鳥』がこの日に創刊されたことによります。
3.北原白秋と玉川学園
北原白秋と玉川学園の結びつきは強く、小原國芳の教育哲学に共鳴した白秋は、当時國芳が校長をしていた成城学園に2人の子供を託しました。ところが、國芳は成城教育だけでは、自らが夢に描いた全人教育、個性尊重の教育を十分にはできないと思い、玉川学園の創設に踏み切ったのでした。しかし、小原が成城と玉川の両方の校長を兼務したことで、玉川の創設を成城に対抗するものと考える一部の成城学園の職員や父兄たちがあらわれました。
1933(昭和8)年、成城を舞台とした学園騒動が起こりました。そして國芳の辞任により、留任を求める小原派と、反小原派の対立が激化。そのような中、同年5月5日の成城学園開校記念日に、白秋は小説家の加藤武雄と連名で「成城学園紛擾について」を作成し、父兄大会の開催を提案しました。また、そのようなさなか、白秋は「成城学園を思ふ歌」144首を詠いあげています。その中で國芳について多く詠っています。『女性日本』第15号(玉川学園出版部/1933年)に「小原先生を思ふ歌」というタイトルでいくつか紹介されています。そのうちの4つを抜粋して以下に示します。
つくづくと深く思ふはこの丘のここにはじめてぞ石を置きし人
小原國芳この人はよしほがらかにただ学園を我家とせり
事すべて私ならず君はただに公にありて子らを思ひき
ただに専(ひとへ)に小原先生をよしとする幼なごころに我が額下る(ぬかくだる)
白秋と國芳が出会ったときのことが、小原國芳が『全人教育』第287号(玉川大学出版部/1973年)に寄稿した「北原白秋さんと私」につぎのように記されています。この時、白秋が43歳、國芳が41歳でした。
「……天まで伸びる子供たち、よいことは何でもしてやりたいのです。いや、やらねば罪悪です。予算も何もあったものではありませぬ。父兄会の幹部たちは私を「道楽ムスコ」と評したり、「ムッソリニー」と呼んだりします」
と話したら、すぐ、
「ゼヒ、私の子をムッソリニーにして下さい」
と力強く挾まれたのが、実に、北原さんでした。実は、当時、若かった私は、この偉大なりし歌聖を知らなかったのです。隣席の国文学の田中末広君に「あの人、どなたか」と耳語すると、「当代、日本一の歌人の北原白秋さんです」と。はじめて知ったほどの世間の狭い私でした。
(略)
「ムッソリニーにしてくれ」。私の心臓に力づよく響きました。かかる偉大な父兄をもった喜び。と同時に、強い責任を感じました。
多くのお父さまが、父兄会なぞにはお母さま任せが多かったのに、よく夫婦で出席して下さいました。しぜん、親しくもなりました。
1933(昭和8)年、國芳が成城学園の校長を辞して、玉川学園の教育に専念するようになると、白秋は2人の子供を玉川学園に転校させました。理想を掲げて新たな教育の場を作り上げた國芳。それまでの唱歌にはない感性豊かな童謡を発表するなど、文芸の分野で新たな流れを作り出した白秋。新たな時代の幕開けに二人は力強く踏み出したのでした。
この当時、國芳は「出版は私学経営に不可欠」と考え、『児童百科大辞典』や教育書を発行していましたが、さらに女性向けの修養雑誌として1932(昭和7)年に『女性日本』を発刊。そして國芳は白秋に歌詞の制作を依頼しました。創刊号の巻頭には、白秋の手による「女性日本の歌」が掲載されています。この詩に曲を付けたのは「城ヶ島の雨」で知られる梁田貞。以後、白秋は『女性日本』を創作の場として数多くの詩や随筆などを発表していくことになります。他にも白秋は歌人として、國芳の活動を題材に数々の和歌を残しています。
白秋が玉川学園のために作詞した歌があります。1999(平成11)年の『愛吟集』にも掲載されています。タイトルは「学園の秋」。作曲は「玉川学園運動会歌」と同様に岡本敏明。歌詞は以下のとおりです。
あさなるかねに 心開けよ
みずあさぎ 空はひろく
梨のみのりの 庭かぐわし
学園 学園 玉川 玉川
すがすがし われら
白秋は國芳から講師等の依頼を受けて何度か玉川の丘に足を運んでいます。前年に引き続き、1933(昭和8)年6月にも「第6回労作教育研究会」の講師として来園。白秋の講義の演題は「児童自由詩」でした。この時、白秋と國芳は玉川学園礼拝堂の前で一緒に記念写真を撮っています。
1945(昭和20)年8月、終戦を迎えた日本国民は敗戦の影響で先の見えない日々を過ごしていましたが、國芳はいち早く教育立国を唱えて新生日本の進む道を示しました。そして、國芳は、第1回の「新生日本教育研究会」を、終戦の年である1945(昭和20)年の12月1日に玉川学園礼拝堂で開催しました。研究会の講師陣は國芳が京都帝国大学の学生だった時の恩師である西田幾太郎、朝永三十郎、波多野精一たちが中心でありましたが、その中に白秋も名を連ねていました。
1973(昭和48)年に玉川大学出版部より白秋の伝記が出版されました。本の題名は『評伝 北原白秋』。長く白秋の側近にあった藪田義雄が書き上げたもの。その出版広告には、國芳のつぎのような言葉が記載されていました。
天を翔る如き奔放な天才詩人・白秋の正伝ここに完成!ゼヒ、みなさまの書斎の光にして下さい!
和歌や童謡の作家として知られる北原白秋。校歌や応援歌の創作はそのような彼の創作活動の一面であり、それほど知られてはいません。玉川学園の子供たちも、彼の作品とは気付かず歌っていることでしょう。けれども秋になると玉川の丘に毎年響く「玉川学園運動会歌」のメロディ、その歌詞は、子供たちが大人になっても胸に刻まれているに違いありません。
参考文献
- 小原國芳「北原白秋さんと私」(『全人教育』第287号 玉川大学出版部 1973年 に所収)
- 北原白秋「小原先生を思ふ歌」(『女性日本』第15号 玉川学園出版部 1933年 に所収)
- 小原國芳編『女性日本』創刊号 玉川学園出版部 1932年
- 小原國芳編『学園日記』第52号 玉川学園出版部 1933年
- 石橋哲成「北原白秋と小原國芳」(『玉川大学教育学部全人教育研究センター年報2014』創刊号 玉川大学教育学部全人教育研究センター 2015年 に所収)
- 斎藤秋男「回想・砧村の北原白秋――藪田義雄編『白秋詩歌一家言』に寄せて」(『全人教育』第247号 玉川大学出版部 1970年 に所収)
- 白柳弘幸「玉川の丘めぐり⑯ 歌い継がれて80年『北原白秋と運動会歌』」(『全人』第755号 玉川大学出版部 2011年 に所収)
- 藪田義雄著『評伝 北原白秋』 玉川大学出版部 1973年
- 玉川学園編『愛吟集』 玉川大学出版部 1999年