玉川豆知識 No.218
馬の入場行進があったコスモス祭開会式
1977(昭和52)年11月2日から4日までの間、第13回コスモス祭が開催されました。開会式の会場は、前年まで文学部第Ⅱ校舎前でしたが、この年から大体育館前に変更。スペースが広くなったこともあり、華やかな開会式に生まれ変わりました。馬術部も参加して入場行進も行われました。
1.コスモス祭の誕生
現在コスモス祭として開催されている大学祭は、当初、大学文化祭という名称でした。初めての大学文化祭の開催は、1963(昭和38)年12月19日。当時、大学は前年に工学部(機械工学科、電子工学科、経営工学科)が開設され、文学部、農学部とあわせて3学部体制となっていました。農学部には収穫祭があり、この大学文化祭は文学部を中心に農学部、工学部の有志が参加して、文化系クラブが主催となって行われました。ただし、この年度の文化系のクラブはへき地教育研究会、地理研究会、聖書研究会、赤十字奉仕団、児童文化研究会、海外農業研究会、美術部、演劇研究会、ワンダーフォーゲル部、合唱団など10部ほどでした。なお、この年度の卒業生は140名で、現在と比べるとかなり小規模な大学祭でありました。
初めての大学文化祭は学生の要望により開催されたこと、開催には反対の意見もあったことが、玉川大学出版部発行の機関誌『全人』第801号の「故きを温ねて」(No.30)に次のように記述されています。
「小原先生喜寿のお祝いに、大学生たちは活動の成果を知らせたかった」と、文化祭常任委員会の初代議長であった米山弘(当時文学部教育学科3年、元文学部教授)は語る。しかし、文化祭を開催したいという学生たちの活動に対して、危惧する動きが学内に少なからず見られた。当時、大学生による学生運動が全国的に広がっていたからである。
これに対して清水清学生部長(当時)は「学長喜寿の御慶びに対する全学生の祝意がこめられている」と学生たちを応援。研究発表の会場は文学部校舎と礼拝堂、塾食堂の3か所であった。
大学文化祭は1967(昭和42)年からコスモス祭(コスモス・フェアー)と呼ばれるようになりました。コスモスとは、ギリシャ語で整美、秩序、調和。またこの言葉は、宇宙の広がりや、秋に咲く可憐なコスモスの花の姿もイメージします。
コスモス祭は、やがて直属会(管弦楽団、合唱団、演劇部など)、体育会(スキー部、陸上競技部、水泳部など)、研究会(生物自然研究部、E.S.S.、自動車工学研究部など)、同好会(茶道部、写真部、ユースホステル部など)といった数多くのクラブの日頃の活動成果を発表する場として、11月上旬に開催されました。
2.第13回コスモス祭
第13回コスモス祭は、1977(昭和52)年11月2日から4日までの3日間開催されました。前年度まで文学部第Ⅱ校舎前で開会式が行われていましたが、この年からは場所を大体育館前に変更。スペースが広くなり、大体育館の階段を利用したパフォーマンスも加わり、華やかな開会式に生まれ変わりました。馬術部も参加して入場行進も行われました。
11月2日開催の礼拝堂での講演会は、佐々木信也氏による「スポーツと私」と題する講演。元プロ野球選手であった佐々木氏は、当時フジテレビ「プロ野球ニュース」のキャスターで人気を博していました。1982(昭和57)年にも講演会で玉川の丘を訪れ、868本のホームランを打った当時読売ジャイアンツの助監督だった王貞治氏とともに壇上に上がり、選手時代の思い出を語りました。
後夜祭はあいにくの雨に見舞われましたが、火は燃えさかり、学生たちはコスモス祭の余韻に浸っていました。
参考文献
- 小原國芳監修『全人教育』第345号 玉川大学出版部 1977年
- 白柳弘幸「故きを温ねて(30)」(『全人』第801号 玉川大学出版部 2016年 に所収)