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故きを温ねて 100

さあさ歌はうよ 玉川音頭 歌にみんなの心がとけて

1946年8月15日、玉川学園駅前広場における盆踊り
『敎育立國論』1946年5月発行。小原は焦土と化した日本を教育で再興しようと獅子吼した。教育博物館所蔵

1945(昭和20)8月15日、正午、小原國芳は玉音放送に耳をかたむけた。
「ハッキリ、聞こえないのです……負けたのかなァ、ポカーンとなって」(『小原國芳全集』23巻)と、終戦の日について回想している。
日本中が虚脱状態に包まれた中、児童生徒学生教職員たちを元気づけようと11月3日に運動会、22日には戦後初めての教育講演を江戸川区で行い、12月1日には第一回新生日本教育研究会を開催した。小原の火を噴くような講演が行われたことは想像に難くない。
翌1946年、学生たちは合唱活動を再開させ「メサイヤ」や「第九」演奏会に出演した。心ゆくまで歌い「歓喜の歌」の真意を味わったことだろう。
終戦1年後の8月15日、玉川学園駅前広場で盆踊りが行われることになった。専門部学生が玉川学園町内会に出向き調整役となり、ポスターを貼り付け、会場の照明やスピーカーを設置し、小原宅からピアノを運び出した。
「さあさ歌はうよ 玉川音頭 歌にみんなの心がとけて……」と「玉川音頭」が披露された。作詞は国語科教員の田中末広、作曲は校歌作曲者の岡本敏明、振付けは小原の次女の純子であった。盆踊りには進駐軍の米兵たちも厚木からジープで駆けつけ、駅前広場に三重の円ができた。新しい時代が来たことを予感させる出来事だっただろう。
最終回をお届けします。21年間、ご愛読いただきありがとうございました。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2022年5月号(No.871)より

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