玉川大学・玉川学園Webサイト
IEサポート終了のお知らせ

玉川大学・玉川学園webサイトTOPページリニューアルに伴い、Microsoft 社の Internet Explorer(以下、IE)のサポートを終了いたしました。本学園が運営するサイトをIEで閲覧した場合正しく表示されない恐れがございます。
皆様にはご不便をおかけしますが、別のブラウザを利用しての閲覧をお願いいたします。

故きを温ねて 71

青年國芳の課外活動

高師弓道場での射初(いぞめ) 式に臨む青年國芳。1912年1月
弓に熱中した小原が写本した日置(へき)流『弓禮羽鏡』。98種の矢羽根の模様が描かれている。教育博物館所蔵

1909(明治42)年4月、青年國芳は広島高等師範学校(以下高師)本科英語科へ進学。22歳であった。しかし少年時代の海底電信技士の激務のために健康を損ねていた。鹿児島県師範学校の先生方に高師進学を報告すると「余り、勉強するなよ」「体を大事にせよ」と、忠告を受けるほどであった。
入学後、弓道部、光塩会(キリスト教信徒の学生会)、学科代表としての校友会委員、クラス委員、英語詩研究会、英文学研究会、日曜学校の校長など十近い集まりの世話を担った。なかでも弓道部委員に一番力を注いだ。
剣道や柔道などの激しい運動は無理なため、静かに胸をひろげる運動として、弓を毎日百本、日曜日は五百本引いたとのこと。「英語科に入学したというよりも「弓道科」にはいった」(『教育一路』)と述べるほどに弓道に打ち込んだ。弓道に関心のありそうな学生仲間に入部を呼びかけ、弓道場設置を倶楽部の部長先生に、また、拡張を北条時敬(ときゆき)高師校長にお願いしたりした。
こうした課外活動について小原は「全く尊い人間修業でした……仕事の進め方、折衝の仕方、工夫、物のいい方、文案の作成、訪問の仕方……教場で教えて頂けない教訓や漫談や振興談や研究苦心談やら書物の上で得られないホントの教育を豊富に受けた」(『小原國芳自伝1』)と述懐している。
昨今、どの大学でも課外活動への参加が減少していると聞くが、何を自分の糧とするか考えてみてはどうだろう。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2019年10月号(No.842)より

シェアする