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故きを温ねて 73

少年國芳のサイエンス

小学部理科教室での理科実験。1948(昭和23)年頃
藤堂忠次郎編『理科小學 巻三』(教育博物館所蔵)。少年國芳もこのような教科書の図絵を見つつ、実験をしたのだろう

1887(明治20)年生まれの小原國芳が小学生の頃、学校で使用していた教科書は、国定制度になる前の検定制度期のものであった。教育博物館所蔵の同時期の理科教科書は数種あり、和綴じの装丁である。
自伝『少年の頃』に載る「源之(げんの)先生」の章で、化学の実験について触れている。少年國芳は薩摩半島突端の田舎の村の小学校に在籍していた。理科室などはなく、教科書に載る実験道具も置かれていなかった。そのために理科実験のある時は、児童らが家から徳利(とっくり) や茶碗を持ち寄り、フラスコやビーカーの代用にした。担任の源之先生は理数系の指導は不得手だったらしく、実験は児童たちに任せていたという。
少年國芳たちは教科書と首っ引きで、徳利や茶碗に酸素を集め、針金を燃やした。燃えると源之先生も一緒に喜んだ。水素の実験をしている時、爆発して徳利のかけらが天井に飛んだという危なっかしい思い出話も書かれている。このような学校生活を通して、いろいろなことを工夫する探究心ある少年に育っていったのだろう。
「好きこそものの上手なれ。何という千古の名言だろう。多くの先生方は、教科書をみんな教えようとアセる。必要なことだが、半分でもよいから先ず理科ずきに……理科ぎらいに、国語ぎらい、学校ぎらいにしては居ないか。スキにしてもらったら、教育の半分はすんだようなものである。一生の救いである。」(『理科教育』)と、小原は少年時代を懐旧しつつ述べている。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2019年12月号(No.844)より

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