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故きを温ねて 77

26歳青年國芳、学級担任となる

京都帝国大学進学を前にして、香川県師範学校の学生たちと共に。
最前列中央の学生服が小原國芳。1915(大正4)年9月
香川県師範学校着任時のフロックコートを着た小原國芳。1913年4月

1913(大正2)年春、小原國芳は広島高等師範学校を卒業し、香川県師範学校に着任。1年西組の学級担任となり英語等を担当した。その時の教え子に、のちに玉川学園校歌作詞者となる田尾一一(かずいち)、学校劇普及に貢献した斎田喬、新制玉川大学の教育学科長になった田中末広らがいた。
彼らが小原を回想する文章には、「先生の月給の殆どは生徒たちの菓子代」「常に生徒を理解し、生徒の味方であった……いつも先生のまわりには生徒が集っていました」「態度にも言葉にも歓びと希望を与えずにはおかないような頼もしいものを持っておられた」(小原國芳全集28巻『自伝1』)等と書かれている。
しかし、授業時は「始業ラッパと同時に飛びこんで来るや否や……『さあ、やるぞ』と始められるのですが、その意気盛んで、清新な空気の教室」の中「時間中は火の出るような緊張さで、わき目などしていると、白墨を投げつけて叱られ」「向学心を、あおって下さった」ため、すっかり学生の人気をさらってしまった。
師範学校卒業生に上級学校へ進学する者は少なかった。そうした中、小原は鹿児島県師範学校、広島高等師範学校を終え香川県師範学校での教職を経て京都帝国大学文科大学哲学科へ進学した。小原の姿を見た教え子は「わたくしどもの前途に、希望の大道が天に向って開けて行く感動であった」と述懐する。敬愛する師が大学で学び続けようとする姿は、学生たちに夢と希望を与えた。結果、教え子たちから学位取得者や大学教授を多数輩出した。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2020年4月号(No.848)より

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