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故きを温ねて 79

36歳國芳、震災に遭う

成城学園でのニルス・ブックと小原國芳。 2列目中央よりやや右寄りが小原、その右隣がブック。1931年9月14日
成城学園での小原國芳(中央)と小林宗作(左、黒柳徹子さんの恩師)。1930年ごろ

1923(大正12)年9月1日、関東大震災発生。「渾沌(こんとん)、悲慘、悽愴(せいぞう)、酸鼻(さんび)、荒寥(こうりよう)、失望、怒、破壞、狂奔(きようほん)、空、無、戰ひ……あらゆる一切の形容詞を以てせざれば蓋(けだ)し能(あた)はざる大混亂の東京に化した」(『イデア』9號)と、小原國芳は綴っている。
震災発生時、小原は成城小学校主事として福岡で講演中であった。3日がかりで市ヶ谷山吹町の自宅に帰り着いた。牛込区(当時)の校舎と自宅は無事であった。
成城第二中学校創立後、小原は手狭になった学校の移転を考えていた。そのさなかに大震災が発生し、この機に移転を決断。同年11月、小原は念願の欧米教育視察で哲学者ナトルプがいたドイツ・マールブルク大学等へ行く計画を立てていた。しかし、視察を断念し校地探しに邁進した。
「吉祥寺、荻窪、高井戸、中野、戶塚、烏山、世田ケ谷、國分寺……一文の金もなくて土地を得ようとするのですから苦しみました」(『イデア』號)と。そして紆余曲折しつつも「場所は府下、砧村です……砧村の喜多見という高臺」に決定した。今、そこに成城学園が広がる。
砧村の新天地にて澤柳政太郎校長を中心として大正自由教育の発信を活発に始めた。「低地には人家もありますが、高臺には家一軒も見へませぬ。雜木林と野原」と述べた地は、日本の新教育運動のメッカとなった。聖書の言葉を借りるのならば「乳と蜜の流れる地」であった。
未曾有のコロナ騒ぎで慌ただしい。ピンチをチャンスとしてどう活かすかが問われる時でもある。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2020年7月号(No.850)より

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