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故きを温ねて 80

青年國芳、哲学を志す

大学授業で教育哲学を講じる小原國芳(1966年)。その板書は広島高等師範学校時代の恩師プリングル先生に似ると言う
『敎育硏究會講演集第七輯』(1913年4月)に掲載された論文の冒頭。養家、鯵坂の姓になっている

1909(明治42)年春、小原國芳は鹿児島県師範学校を卒業し、広島高等師範学校英文科(以下、高師)に進学した。高師ではクリスチャンの英文科教員や宗教哲学を講ずるケンブリッジ大学出身の教員、生涯の付き合いとなる多くの学友らと出会った。そうした経緯は自伝『夢みる人』に詳しく綴られている。
教員を目指すという志を持ちながらも、在学中に実家再興のため養子縁組を強いられた。その上、養家から結婚を押しつけられるなど「愛し得ざる悲哀で悶々」(『自伝』)と述べ、苦悩に満ちた時期でもあったようだ。高師では十いくつもの校友会の役目や係を引き受け、弓道に熱中した。それは苦悩から逃れ、忘れるためであったのかも知れない。
『自伝』では係の仕事が忙しく勉強に集中できなかったと述べている。それにもかかわらず、高師発行誌『敎育硏究會講演集』に生涯にわたる研究テーマ「兒童の宗敎心」という論文を掲載している。苦悩しつつ、物事の本質を徹底的に考え抜き、真理を追究する哲学という学問に向かわせたのではないかと想像する。
高師卒業後、香川県師範学校に着任するも、京都帝国大学文科大学哲学科に進学した。「一生學究者でありたい。眞理探求者でありたい」(『敎育の根本問題としての哲學』)と大正末年に述べている。その言葉を貫いたのだろうか、半世紀後、最後の入院となる直前まで原稿用紙に向かっていた。
現在、教育博物館学園史料担当として「小原國芳執筆記事・論文」をまとめているが、記事は2,000本を超え、原稿も数多(あまた)残されている。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2020年8月号(No.851)より

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