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故きを温ねて 86

青年國芳、代数に苦戦する

鹿児島県師範学校在学当時、日本基督教会(山下教会)の日曜学校の児童、生徒たちと。
最後列左から3番目が小原國芳。1907(明治40)年頃
小原國芳著『少年の頃』(玉川大学出版部)。本書には「算術」が得意であった思い出が書かれている

教員を目指した小原國芳は鹿児島県師範学校(以下、鹿師)、広島高等師範学校(以下、高師)に学んだ。鹿師では小学校教諭、高師では中等学校の英語を主とする教員免許状を取得した。さらに京都帝国大学では哲学科に学んだ。奨学金や仕送りを受け苦学力行したとは言え、当時最高の教育を受けた。
各学校での勉学の様子については、小原國芳全集『自伝』で詳しく述べられている。文中では「夜半に苦しい夢を見る時は、多くは代数でいじめられた夢です」(『自伝』)と、意外なことを綴っている。こうした悪夢を、70歳を超えても見ていたようだ。鹿師3年の時に病気のために長欠し、友人たちに遅れて嫌になってしまったとのこと。「よく、鹿師を卒業させて下さったと思います」とまで書いている。後年まで、代数の苦手意識を克服するために、「(鹿師時代の)代数を終わりまでやりとげたらそうした悪夢を見なくなるのではないか」と思いつつも、多忙で時間がないことを嘆いていた。
戦後の教育改革により、新たに教育職員免許法が施行された。戦前戦中、教員不足の折に代用教員として任用されていた大勢の人たちが、小学校教員免許状取得のため発足直後の通信教育部(当時)に入学した。彼らが一番苦労したのが英語やドイツ語など外国語の修得であった。学修に励む学生たちのために、スクーリング開講時、正課外に補習を行うなどして励ました。人一倍苦学したからこそ、そうした学生たちに寄り添ったのだろう。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2021年2月号(No.857)より

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