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故きを温ねて 94

少年國芳、英語と出会う

1908(明治41)年、鹿児島県師範学校で教育実習中、桜島へ遠足。最上段右端が小原國芳
1910年、小原國芳の鹿児島県師範学校卒業証書。「加設科目英語」と載る。鹿師に在籍していた時期、小原は鯵坂家の養子となっていた

小原國芳自伝『私の幼き日』に、西洋人が自宅に泊まった思い出が載る。客人から頭をなでてもらい「インターナショナルな氣持ち」を持ったという。『少年の頃』には、早くに両親を失い中学進学が叶わず、電気通信技術伝習生養成所受験時のことが書かれている。学校では1回も習わなかった英語を兄たちから学び猛烈に勉強したとのことだ。
養成所入学後のことは小原國芳全集『自伝』が詳しい。上司や仲間に恵まれ業務に励みつつ英語に打ち込んだことは「一生の大事な土台」の一部分になった。
鹿児島県師範学校(以後、鹿師)に進学。1年時の英語教師が小原の英語力を認め、英国ケンブリッジ大学出身の宣教師による英語の聖書講義に誘う。この英語教師はのちに『クオレ』(別名『愛の学校』)の翻訳者となる三浦修吾であった。
師範2年時、学生有志で英語劇などの発表会を行い、小原の英語熱を鹿師校長が知るところになった。校長から「年々、一人ぐらいはセメて高等師範にもはいってもらいたい」と、高等師範学校進学を勧められる。「三年後にはどうしても合格しなくては男が立たぬとばかり英語に取り組んだ」。そして努力の甲斐あって広島高等師範学校本科英語科に合格。鹿師の教師らからの感化で、小学校教員免許状に加え、法改正により取得可能となったばかりの英語科免許状も得た。
『自伝』を読むと、小原は人生の節目節目によき理解者と出会えたことを知る。加えて、その時々の置かれたなかで学業や仕事に誠心誠意努め、夢をいだきつつ自らの道を拓いている。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2021年11月号(No.865)より

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