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故きを温ねて 99

小原國芳の父と母

1966(昭和41)年6月、幼稚部「父の会」。同年3月に完成したばかりの旧幼稚部園舎にて
久志の入り江を望む(2019年3月筆者撮影)

小原國芳は1887(明治)年4月、九州薩摩半島南端の川辺郡西南方村久志(現南さつま市坊津町久志)に、父茂七郎、母ハセの7人兄弟の3男として生まれた。
先祖は島津藩士で、祖父は寺子屋の師匠であったが早世。そのため父は学問を修められず、職業人としても立ちゆかなかった。21歳の時に西南戦争に従軍し、刑執行直前に許されて帰郷し結婚。金山経営に失敗し、先祖伝来の山や田畑を手放した。惨めなほどにやつれ、酒を飲み苦しさを紛らわした。しかし厳しくも心優しかったそうだ。
そうした家を機織(はたお)りなどして支え、やりくりしていたのが母であった。少年國芳は母の手伝いなどを通して仕事の段取りや工夫の大切さを学んだ。しかし母と父を11歳、13歳の時に立て続けに失う。「両親の死という深刻な悲劇が、何よりの宗教の芽生えを生みつけてくれた」と述懐している。
もし小原の父が金山経営に成功し資産家になり、両親も長生きをしていたら、その後の小原の歩みはどうなっていただろう。地域に初めてできた旧制中学校に学び、旧制高校、大学へと進学し、学問の道に進んだだろうか。あるいは実業家として企業経営などをしていたかもしれない。
両親が長生きしていれば宗教への芽生えはなかったかもしれないし、母の手伝いなどがなければ労作教育の意義に気づかなかっただろう。小原は両親の生き様を受け入れ、人生を開拓していったと思うのである。

(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2022年4月号(No.870)より

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