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玉川豆知識 No.100

玉川モットーの誕生

玉川モットーのルーツは、玉川学園創立の年1929(昭和4)年の6月に刊行された機関誌『學園日記』(創刊号)にさかのぼります。その中に「喜んで、困難を友としてよ、微笑みを以って辛苦を迎えてよ・・・(略)・・・最も苦労の多い場面を真っ先に選んでよ」という一文があります。この一文が時代とともに現在の玉川モットーに変化していきました。

玉川学園の正門のところに、ひときわ目を引く石碑があります。この石碑に書かれているのが、玉川学園のモットーです。

人生の最も苦しい いやな
辛い 損な場面を
真っ先きに 微笑を以って
担当せよ

このモットーはどのようにして生まれたのでしょうか。その変遷を辿ってみましょう。そのルーツは、玉川学園の創立の年1929(昭和4)年の6月に、玉川学園で初めて刊行された機関誌『學園日記』の創刊号にさかのぼります。その『學園日記』創刊号に玉川学園創立者である小原國芳自身が書いた「少年たちに告ぐ(一)新しく学園の生れましたわけ」という文章があり、その中に「喜んで、困難を友としてよ、微笑みを以って辛苦を迎えてよ・・・(略)・・・最も苦労の多い場面を真っ先に選んでよ」という一文が記されています。

この一文が冒頭の玉川のモットーとなり、1962(昭和37)年9月に玉川学園正門の石碑に書かれるまでには、いくつかの変遷がありました。たとえば1929(昭和4)年頃には國芳が「ピラミッドの土台石になれ」「北風に向かって口笛を吹け」と語り、それが初代のモットーになったと指田太郎氏が語っています。上述の『學園日記』創刊号の「少年たちに告ぐ(一)新しく学園の生れましたわけ」の冒頭には、「ピラミッドの土台石」の話が出てきます。國芳はこの中で次のように述べています。

「砂上の家」というが、基礎のない家はダメに決まっている。同様に、国家も社会も、学校も工場も、軍隊も銀行も・・・・・・至る所が、隠れたる己を犠牲にして、ミッシリ働いている巨岩が土台になければダメである。そうだ、諸君の一人ひとりに、己が向う社会の捨て石になって貰いたいのだ。ピラミッドの土台石になって貰いたいのだ。
時計の長針となり短針となることは誰も欲しよう。しかも、何人にも認められないところに――しかも窮屈な、暗い、油くさい、むさ苦しいところにゼンマイはコツコツと規則正しく、何人にも認められざるに黙々として働いてることを考えなければならない。

この文章の末尾に、上述の「喜んで、困難を友としてよ、微笑みを以って辛苦を迎えてよ・・・(略)・・・最も苦労の多い場面を真っ先に選んでよ」の一文が続いています。

そして、1930(昭和5)年1月に刊行された雑誌『教育研究問題・全人』(第42号)の中に「新しく玉川学園が生まれたわけ」として、以下のような國芳の言葉が記載されています。

全人教育の立場からホントの真を掴み、ホントの善を経験し、ホントの美しさを理解し、聖の世界のわかる人間を育成せんがために他ならぬ。さらに喜んで困難と闘い、人生の一番辛い損な場面をも率先して引き受け、国のため、社会のため、人類のため捨石となり土台となり得る真人間・・・(略)

また、1932(昭和7)年9月の『学園日記』の中で、以下のように國芳は力強く訴えています。

第二里を行く人を、世の中の いやな つらい 苦しい困難なことを微笑を持って 真っ先にやる人を 誰だって探しているのだ 心から待望しているのだ かかる人になる準備をすることだ その心構えのないような人はドコへ行ったってダメだ。

1935(昭和10)年から1937(昭和12)年頃の学校案内等の学園概要では、「第二里行者と人生の開拓者」と題して、國芳は次のように記しています。

人生の最もいやな つらい 苦しい 困難な 損な場面を真っ先に微笑を以って担当し得る第二里行者が欲しいのです。

ただし、モットーとは注記されていません。

1939(昭和14)年の玉川塾専門部の教育目標の文中には、以下のような一文もあります。

ややもすれば、高等教育を受けた者は嫌な場面、損な場面、あるいは辛い仕事、苦しい仕事を避けようとしますが、そうした場面なり、仕事なりを真っ先にしかも、その顔には微笑さえ浮かべて担当し得る第二里行者の養成に努めたい。

第二里行者とは、玉川学園の12の教育信条にも出てきますが、マタイ伝の「人もし汝に一里の苦役を強いなば彼と共に二里行け」という一節から取られています。最初の一里は命じられるままに歩いたとしても、次の一里は自分の意思で歩くこと、つまり誇りを持って物事にあたることが重要であるという意味です。

1940(昭和15)年、学園の概要をまとめた小冊子『玉川塾の教育』というパンフレットの「第二里行者と人生の開拓者」という項目では次のように記載されています。

『人生の最もいやな つらい 苦しい 困難な 損な場面を真っ先きに 微笑を以って担当せよ』とは玉川っ児のモットーであります。

そして、「いやな つらい 苦しい 困難な 損な」は、1959(昭和34)年以後、現在と同じ「苦しい いやな 辛い 損な」の順番に変化していきました。

このように國芳の生き方に対する思いや玉川学園が理想とする人物像は、時代によってさまざまな言葉を借りて表現されてきました。そしてそれが一つに収斂されたのが、冒頭の玉川モットーなのです。玉川学園の正門は、学園で学ぶほとんどの園児、児童、生徒、学生が朝に夕に通る場所。今日も、そしてこれからも、玉川モットーはこの場所で彼らの成長を見守っているに違いありません。

参考文献

  • 小原國芳編『學園日記』創刊号 玉川學園出版部 1929年
  • 小原國芳著『玉川塾の教育』 玉川大学出版部 1948年
  • 白栁弘幸「玉川の丘めぐり」(『全人』第746号 玉川大学出版部 2011年 に所収)
  • 玉川学園編『贈る言葉 小原國芳』 玉川大学出版部 1984年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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