玉川豆知識 No.114

「世界一のスキーヤーから習いたい」という少年の一言で実現したシュナイダーの来日とシュナイダー像の制作

少年の一言で、玉川学園創立者小原國芳は、アルペンスキーにおいてトッププレーヤーであるハンネス・シュナイダーを招へい。シュナイダーがもたらした技術によって、日本のスキーは飛躍的に進化しました。その功績を讃え、経塚山(三角点)の山頂には、ハンネス・シュナイダーの像が建てられています。

1.ハンネス・シュナイダー(1890~1955年)

“アルペンスキーの父”として知られるハンネス・シュナイダーは、1890年代にヨーロッパ・アルプス地方で始まったスキーの黎明期に、世界のスキー普及に偉大な足跡を残し、「玉川学園とスキー」の基盤を築いた人物です。

1930(昭和5)年、玉川学園創立者小原國芳は、オーストリアからシュナイダーを日本に招へい。シュナイダーは当時、アルペンスキーにおいてトッププレーヤー。「スキーを習うなら世界一のスキーヤーから習いたい」という子供たちの願いを耳にした創立者は、すぐに総領事館に直接交渉。その熱意が伝わって、わずか1か月も経たないうちにシュナイダーの来日が実現しました。シュナイダーは、連日のハードスケジュールの中、本学の生徒たちに熱心にスキーの講習を行ってくれました。その時のことが南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』(玉川大学出版部発行)に次のように記されています。

昭和五年の正月、小原は生徒たちとスキーをかついで妙高に登った。朝の練習でひと汗かいて風呂のあとコタツにはいっていると、中学二年の少年が
「同じ習うならば世界一におそわりたいですね」という。
「世界一」と聞いて小原の頭は稲妻にうたれたようにしびれた。
「世界一ってだれ」「先生、知らないの」「知らないよ」「それは先生、ハンネス・シュナイダーですよ、オーストリア、サン・アントンの」「よしきた、往年の海外電報係りだ、それに英語の先生だ」

どんなことでも一流のものを子供たちに触れさせることに意義を感じていた小原は、即座に招へいを決めました。小原はかつて、電信局に勤務していたり、教諭として英語を教えていたことがあり、その経験を生かして、早速英文で電文を作成。有名人だから「オーストリア サン・アントン」で届くだろうと正確な宛先もわからないまま電報を打ちました。
「日本にスキー教授に来てくれ。往復一等。三週間滞在。一週間見物。滞在費一切負担。謝礼一万円。東京、玉川学園長 小原國芳」

当時の1万円は現在の価値にして1千万円以上と高額であったため、小原は頭を抱えながらも資金繰りに奔走。さまざまな人から借金を重ね、1万円を何とか工面し、シュナイダーの来日を実現させました。当時を振り返って小原は「山のような借金が出来ましたが、生徒たちが『世界一』を迎えた喜びにひたっている姿に、私は救われました」(小原國芳著『教育一路』玉川大学出版部発行)と語っています。

1930年3月に来日したシュナイダーは、本学と成城学園の生徒に対し、池の平で講習会を開催。また、池の平のほか、妙高、沼尻、菅平、高田、秋田、山形、北海道、東京などでも講習会を開いて回りました。素晴らしい技術を披露し、観衆を驚嘆させたシュナイダーは、日本に初めてスチール・エッジを持ち込んだ人物であり、以来、日本のアルペン・スキーは一変し、アールベルク一辺倒となりました。現在でも野沢温泉には、シュナイダーが真一文字に滑降した急斜面に「シュナイダー・スロープ」の名前が残されています。シュナイダーがもたらした技術はその後発展をつづけ、日本のスキーは飛躍的に進化。独自の文化と世界と闘える強さを持つ、日本のスキーが形づくられていきました。

1990年にはシュナイダーの生誕100年、来日60周年を記念して、本学および成城学園、各スキー団体などが中心となり、ハンネス・シュナイダー祭が行われました。現在でも、本学のスキー学校では、シュナイダーにちなんで、練習の始まりと終わりに皆で集まり、ストックを高く掲げ「シー ハイル(ドイツ語で、スキー万歳!の意)」の掛け声を交わすことが恒例となっています。

2.ホンモノに触れることの大切さ

玉川学園では、本物に触れ、子供たちの五感に訴える教育活動を実践。小原國芳がシュナイダーを招へいしたことも、ホンモノと子供たちを触れさせたいという思いからでした。『全人』第823号の「故きを温ねて」(52)に次のような記述があります。

小原國芳は一流の人と出会わせ「子供らに喜んでもらえるということが、万事、私の教育推進力なのです。これがなくなったら、教育者としての生命は無くなったようなものです」(『シー・ハイル』)と述べる。
小原國芳は世界一、日本一、ホンモノという言葉が好きだった。子供たちが一流の人と接し、ホンモノと出会うことは大きな喜びとなり、それが子供たちへの教育になると信念を持っていたからである。この考えは現在の玉川でも受け継がれている。

シュナイダーと小原國芳一家

3.シュナイダー像の制作

玉川学園キャンパスにある経塚山(三角点)の山頂には、ハンネス・シュナイダーの像が建てられており、アルペンスキーの父と玉川学園との絆を今に伝えています。1963(昭和38)年2月13日に“第二のシュナイダー”、あるいは“オーストリア・スキーの父”と言われたシュテファン・クルッケンハウザー教授一行が来園したことを記念して、経塚山(三角点)にてシュナイダー像の除幕式が行われました。このシュナイダー像を制作したのは、当時の美術部の学生たちでした。

シュナイダー像の除幕式
後方中央がクルッケンハウザー教授夫妻

その後、1982(昭和57)年に、彫刻家の松田芳雄氏によって、白セメント製からプラスティック製の像に取り替えられました。

玉川学園では毎年、「ハンネス・シュナイダー スキー学校」という名称で、スキー学校が開催されています。こうして、シュナイダーが伝えたスキーの精神は、今も玉川の子供たちに受け継がれています。

1971(昭和46)年3月16日にシュナイダーの娘さんご夫妻が、オーストリアのサンクト・アントンの村長とともに来園。シュナイダー像の前で記念写真を撮影しています。その来園のことが、『全人教育』第259号の巻頭言「雪の思い出――スキーとシュナイダーとクルッケンハウザー」に次のように記されています。

今年の三月十六日。長野県の野沢町の町長代理の観光課長が、オーストリアのサンクト・アントンの村長のOthmar Sailerをつれて来ました。二つの村が、山国で、スキーで有名なところから姉妹村になったので、招待したのです。
その時、同道したのが二人。それがハンネス・シュナイダー氏の娘のHerta Fahrnerと夫のFranz Fahrnerでした。
私の父の銅像が世界に一つ、日本の玉川大学にある筈だといって、一団が来てくれたのでした。

シュナイダーの娘さんご夫妻とサンクト・アントンの村長を迎えて

関連サイト

参考文献

  • 小原國芳「少年たちに告ぐ」(学園日記』第9号 玉川学園出版部 1950年 に所収)
  • 小原國芳「スキーとシュナイダーとクルッケンハウザー」(『全人教育』第259号 玉川大学出版部 1971年 に所収)
  • 小原哲郎編『シー・ハイル――オーストリア・スキー――』 玉川大学出版部 1962年
  • 小原國芳著『全人教育論』 玉川大学出版部 1969年
  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1980年
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 長岡忠一著『日本スキー事始め』 ベースボール・マガジン社 1989年
  • 『奥志賀高原 ハンネス・シュナイダー スキー写真展』 パンフレット 2011年
  • 小原國芳「雪の思い出――スキーとシュナイダーとクルッケンハウザー」
               (『全人教育』第259号 玉川大学出版部 1971年 に所収)
  • 白柳弘幸「故きを温ねて」(『全人』 玉川大学出版部 に所収)
         第644号(2002年)、第656号(2003年)、第702号(2007年)、
         第823号(2018年)
  • 『玉川学園の教育活動 玉川大学の教育活動(2008~2009)』 玉川学園 2008年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年