玉川豆知識 No.119

終戦の年に運動会を開催

終戦を迎え敗戦の衝撃を受けて、先の見えない日々を過ごしていた日本国民。再開した学校でもさまざまな制約が課され、体育の授業では行進や武道が禁止されました。そのような状況の中、これではいけないと、小原國芳は運動会の開催を思い立ちました。

1945(昭和20)年8月15日、終戦。わが国は連合国軍の占領下におかれることとなりました。そして教育に関しても、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の管轄下に。それにより、多くの制約が課され、学校教育もさまざまな影響を受けるになりました。例えば体育の授業では、行進や武道といった活動が禁止されました。

1941(昭和16)年第12回運動会の全生徒・教職員の大行進

終戦を迎えた日本国民は戦争に負けた衝撃で意気消沈し、先の見えない日々を過ごしていました。同年9月より授業が再開されましたが、生徒たちも同様に心ここにあらずの状況で、以前のような明るさが消えてしまっていました。いち早く教育立国を唱えて新生日本の進む道を示した小原國芳は、生徒たちに明るさを取り戻させないといけないと考え、学園あげての運動会を提案。そのことが、『全人』第688号の「故(ふる)きを温(たず)ねて」に次のように記述されています。

九月に入り、玉川学園から新学期開始の案内や新学期にあたっての心構えの通知が出された。しかし丘に集まった学生たちは、国民の多くがそうであったように、戦争に負けた衝撃から抜けきらず茫然としていた。同年十一月三日、戦後第一回の運動会が「人心を立て直そう」と小原國芳の発案で行われた。
 (略)
同年十月に入学した学生は戦後まもない時期に運動会が行われた驚きを、聖山に日の丸が高く掲げられていたこととともに回想する。

1945(昭和20)年第17回(戦後第1回)運動会

上述の通り、戦後第1回となる運動会は終戦の年の11月3日に開催。進駐軍に叱られはしないかと心配ではあったが、意気消沈した気持ちを変えさせるために、朝から花火を打ち上げました。案の定、近くの厚木飛行場から二機の飛行機がやって来て上空を旋回。そのときの様子が小原國芳著『教育一路』に次のように記されています。

涙の終戦。世は失意、落胆、まったくの放心状態。これではいかぬ。九月の新学期早々学園あげての大運動会を行いました。進駐軍のトガメを受けないかと、内心ビクビク。はたせるかな、数機の飛行機が学園の上を舞う。二台のジープがやって来た。しかし、明るい運動会風景を見て、米兵の顔に笑顔があふれる。「写真とってよいか」「よろしい」。厚木飛行場まで写真機をとりに行くという始末。和気あいあいの交歓風景となりました。

先が見えず暗闇の中をさまよっているかのような当時の世相の中で、この運動会の開催は、玉川教育の戦後の進むべき道をいち早く示したともいえる象徴的な出来事でした。

1946(昭和21)年第18回(戦後第2回)運動会。残っている記録によるとこの年より入場門の制作が開始された

関連リンク

参考文献

  • 体育祭の歴史編集委員会編『玉川学園・玉川大学 体育祭の歴史』 玉川学園・玉川大学体育・スポーツセンター 2009年
  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1980年
  • 白柳弘幸「故きを温ねて(54)」(『全人』第688号 玉川大学出版部 2005年 に所収)
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史写真編』 玉川学園 1980年