玉川豆知識 No.121

玉川学園に来園したお客様④1961(昭和36)年~1962(昭和37)年

ボース博士

インドの物理学者。講演旅行の途中の1961(昭和36)年1月18日に来園したサティエンドラ・ボース博士ご夫妻をインド国歌でお迎しました。博士は礼拝堂で「タゴール翁の思想」についての講演を行い、その後学園各部を視察。特に当時最新の教材機器であったリコーシンクロファックスを見学した際には、実際に使われてみて、効率の高い学習方法に大変驚いていらっしゃいました。

バーエ大使

駐日メキシコ大使。アルフォンソ・カストロ・バーエ大使は、野口英世博士の銅像贈呈式に参加するために、1961(昭和36)年3月2日に来園されました。(*銅像を贈呈する経緯は関連リンクを参照)まず始めにメキシコ国歌や民謡「ラクカラッチャ」を全学生、生徒が歌って歓迎。大使はこの合唱を大変喜ばれました。続いてセレモニー(生徒代表の言葉、野口英世記念館理事長(代理)の挨拶、大使の言葉のあと、学園で作成した「野口英世アルバム」とともに銅像が贈られました。)が行われ、大使は「この像を寄贈してくださる皆様のご好意に対し、心からお礼を申し上げます。私は、日本とメキシコの友情の印として、メリダ医科大学に代わり、喜んで、ありがたくいただきます。」と挨拶をされました。その後、小、中、高、大学と、それぞれの教育の実際の場面を視察されながら「話には聞いていたが全くすばらしい。このような教育方法はどうして。全く不思議だ。子供たちは明るく、学んでいる。実にすばらしい。」と方々で感激し、一つひとつ質問されてはうなずきながら、「これこそ、ホンモノだ」とワンダフルの連発。こうして時の経つのを忘れ、玉川教育を隅々まで吸収し、予定時間をはるかにこえて熱心に視察されて帰館されました。

シャン・ド・ラーム-スイス大使

スイスのトローゲンの戦災孤児院院長ビル博士の来園がきっかけで、玉川の子供たちはトローゲンの森のペスタロッチ児童村の学校の献金を集めました。その献金を届けた際にシャン・ド・ラームスイス大使が、「ぜひお礼をかねて玉川を見たい」と言われ、1962(昭和32)年4月8日家族で来園されました。礼拝堂で行われていた中学部の入学式に大使一家をお迎えし、スイスの国旗掲揚と国歌で歓迎し喜んでいただきました。大使夫妻も入学生一人ひとりにお祝いの握手をし、子供たちも大喜び。(その後三か国の文部大臣とイギリス大使館文化部長ら一行をお迎えし大変珍しい入学式になりました。)

デラクセシー-イラン文部大臣、マラクル-タイ文部大臣、アブハイ-ラオス文部大臣、トムリン-イギリス大使館文化部長ら一行

アジア諸国の初等義務教育普及向上のため日本において文部大臣会議が実施された後、学校見学に玉川学園を希望されたイラン、タイ、ラオスの文部大臣と財務官、大学教授、秘書官、オブザーバーとしてイギリス大使館の文化部長ら一行18名が1962(昭和37)年4月8日に来園されました。はじめに礼拝堂(この日は中学部の入学式が行われていてスイス大使一家が参列されていました)で歓迎の会を開き、それぞれの国旗を掲揚、そして生徒が国歌を原語で歌い喜んでいただきました。その後学園全体を見学された一行は、食事の会、本の寄贈、教育学部と工学部への留学生の希望や教科書編纂の協力などのさまざまな提案を喜んでおられました。また小原園長は留学生や研修生の受け入れを申し出ました。(後日タイ国から一人研究生が幼児教育研究のため派遣された)

デラクセシー-イラン文部大臣(右から3人目)
アブハイ-ラオス文部大臣
マラクル-タイ文部大臣
トムリン-イギリス大使館文化部長

ラーセン館長

アンデルセン博物館長。外務省が招へいしたスベン・ラーセン館長の「日本に来たらぜひ充実した子供の教育を行っている代表的な学校を見て帰りたい」との希望で玉川学園が視察先として選ばれました。そして館長は1962(昭和37)年4月10日に来園しました。この日は到着後、礼拝堂で小・中・高等部生によるアンデルセンの劇、「みにくいアヒルの子」、「錫の兵隊」、「マッチ売りの少女」とその合唱、或いは男女生徒の混声合唱、可憐で美しい女子生徒の日本舞踊などに目を輝かせてご覧になられました。その後美術研究室に赴き、ラーセン館長の来園を記念に数日前から大学生たちの手によって制作が開始されていた高さ3メートル余の「三人の子供に囲まれて話をしているアンデルセンの座像」の前に来た時は、「これは全く素晴らしい大作だ、特に顔が実によく出来ている」と驚かれて、暫くその前を立ち去ろうとしませんでした。昼食後小学部の授業の参観、高等部生によるデンマーク体操をご覧になられました。体育館を出ると満開の桜の大木のそばに美しい赤地に白十字のデンマーク国旗が白いポールの上にひらめいていました。それをご覧になられたラーセン館長は「今日は祖国デンマークに一寸帰っているような錯覚をおぼえた」と大変喜ばれていました。

シュトラウス夫人

リンカーン・スクールの後継者。コロンビア大学教育学部大学院(Teachers College)の理事。ヘレン・シュトラウス夫人は、以前玉川を訪問されたコロンビア大学キャズウェル総長(1958(昭和33)年に来園)から、日本に行ったらぜひとも玉川を訪れるようにと熱心に薦められたことが訪問実現の動機となり、1962(昭和37)年4月16日に来園しました。この日は小原学長の案内で朝10時半、礼拝堂で高等部生から歓迎を受けた後、小・中学部を中心に学園の中を丹念にみて歩かれました。小学部生たちの大労作による池、あひる小屋、橋、温室、養魚、花園、小鳥小屋、美術教室から音楽教室、理科教室をご覧になると大喜びをされ、特に語学教室のティーチングマシンを生徒たちが盛んに使っている光景を熱心にご覧になられていました。学園の活動を見られて夫人のもっとも感心されたことは小、中学部において子供たちが規律のあるなかにも実にのびのびと学習活動に従事しているということでした。教室内外における、子供たちの礼儀正しい態度にも大いに感銘され、「アメリカの子供たちにお手本として玉川の生徒たちを見せてやりたい」と何度も話されていました。

シュラム博士

スイスのチンメルマン博士の親友。1940年代に渡米し、ロサンゼルスで大学を創設。アルツール・シュラム博士は1962(昭和37)年4月26日ご夫妻で来園しました。この日は礼拝堂で高等部生と英米文学科2年の学生が中心になって歓迎会を行い、ベートヴェンの第九のL章の合唱でお迎えしました。その歓迎にドイツ人である博士は感極まって泣き出されました。博士は講話の後、学園内を見学し特に美術教室では焼き物に絵を書いたりして楽しまれ、心から玉川を理解し喜ばれていました。翌日博士から「お礼に本をたくさん集めて贈りたい」とありがたい言葉をいただき、それに応えて小原学長も玉川百科大辞典や教材等を贈ることを約束しました。

マッキントッシュ博士

ロングビーチ州立大学長。昨年のメキシコ親善使節団によるメキシコ旅行の帰途、ロングビーチ大学のワーナー教授のお世話で講堂をお借りし、合唱、舞踊、劇の公演を行ったことがきっかけで、「ロングビーチ大学と玉川大学が文化交流を中心に太平洋の西と東で心の絆を結ぼう」と提案がありました。早速カール・W・マッキントッシュ博士に玉川にお越しいただいて、具体的な話し合いを進めようということになりました。そして博士は1962(昭和37)年7月6日にご夫妻で来園しました。この日は小学部の鼓笛隊の先導で全学園学生、生徒3,500名の集まる小学部グランドの歓迎式典に参列していただき、オーケストラの伴奏による両国国歌の合唱でお迎えしました。次に小原学長が歓迎の挨拶を述べ、博士に玉川大学名誉教授の称号を贈られました。博士は「この度、玉川大学のお招きをいただき今日このような歓迎を受けたことは一生忘れることはできません。(中略) そして今いただきました名誉教授の名に恥じないよう、またこの恩恵に報いるよう努力いたします。」とお礼の挨拶を述べられました。式典終了後は、講堂で大学生全員に対して記念講演をし、午後は学園各部を参観され、特に小学部のアヒル池や温室などは子供たちの労作であるとの説明に大変驚かれ、さらに各教室での生徒・学生の活動や活躍ぶりには「ワンダフル」を何度も連発されていました。この訪問をきっかけに博士は「今後両大学が共通に持ち得る研究課題を中心に双方で研究しよう。」と小原学長に述べられました。

セオドール・ブラメルド博士

アメリカ教育哲学界の泰斗。ボストン大学教授。アメリカ文化交流研究会のため来日し、「玉川をぜひ見たい」との希望で1962(昭和37)年9月4日来園しました。この日は文学部校舎で小原学長と会うと固い握手をし、「日本教育界で見るべきものは、玉川と信じて来ました。ラッグ博士(1960(昭和35)年来園)からも聞いていました。長年の希望でした・・・・・・」と来意を告げられました。その後参観に入り小学部運動場正面に掲げられた学園旗とアメリカ国旗を仰いで「日本に来て初めて祖国の国旗で迎えられました。」と大満悦の様子でした。次にすぐ横手の大食堂のステージで練習していた合宿中のオーケストラ部の様子を見に行かれました。するとオーケストラの学生たちは演奏を中止して、「Oh, say! can you see」と声高らかにアメリカ国歌を歌いました。博士は屹然、不動の姿勢をとって感謝されました。つづいて博士は小学部の坂に向かうと、ここでも待ち焦がれたように走り寄ってきた小学部に在学中の数名のアメリカ人の玉川っ子の一人ひとりと握手や喜びの愛撫を取り交わしながら、池づたいに温室、養魚池を見学。途中で子供たちの作った理科での犠牲動物の霊を祀る十字架の塔に博士の眼が吸い付けられていました。美術室の中では、ついに感極まって博士は質問を連発され、「長い私の教育者生活の中で、多くの世界教育参観を行ってきたが、全く初めてのもの、・・・・・・ワンダフル・・・・・・スプレンティッド・・・・・・どうしてこのような指導が・・・・・・」と感動の極みのご様子でした。その後向かった音楽室でも子供たちがアメリカ国歌を歌い歓迎の意を表しました。静かに己の学習を進めている理科室、各自が機械を操作しながら勉強している英語室、社会科、算数科等々の自学態度を見学しながら博士は「どうしてこのように生き生きと打ち込めるのか・・・・・・」等の質問を繰り返しました。中、高、大学は夏休みのため、止むなく映画フィルム「玉川学園の教育」を映写し全貌を察知していただきました。美しいカラーフィルムに展開される四季の学園生活や幼児から大学生、教職員までが一貫の玉川教育に打ち込んでいる姿に「ジョン・デューイは、まさに玉川にのみ生きている。世界の玉川だ。新教育の至宝だ・・・・・・」と喜んでいただきました。

セイヤー博士

ボストンにあるセイヤー学園(幼稚園から高等学校まで)の校長。セイヤー博士は、一昨年世界比較教育学会で学園を訪れたリード博士の紹介で1962(昭和37)年10月6日来園しました。この日は礼拝をご覧になられると殊の外喜んでいただきました。次の小学部の見学では各施設、教室での様子を、熱心にメモをとられていました。昼食後、中学部の機械を活用した授業を中心に細かくご覧になられ、特に工作室でのヴァイオリン製作などを写真に納めていました。その後工学部、高等部の各教室・施設(生物、化学、養鶏、音楽、体操)を見学されとても喜んでいただきました。翌日博士は小原学長に「来年の夏、2ヵ月、10数名の高校生を日本語の勉強にやりたい。某大学にと思っていたが、玉川に頼みたくなった」「早速、校友会にエア・メールを出す。玉川とシスターアカデミーになるように」と伝え固い握手を交わしました。(約束通り翌1963(昭和38)年5月、アメリカ・ボストンのセイヤー学園から教師1名、生徒2名が来園。1カ月後、本学からも同数の教師、生徒をセイヤー学園へ約3カ月派遣した。これが本学での交換留学の始まりであった。)

参考文献

  • 小原國芳監修 『全人教育』玉川大学出版部
     第139号 、第140号(1961年)
     第153号 、第154号、第158号、第159号(1962年)
  • 『玉川教育-1963年版-』玉川大学出版部 1963年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 白柳弘幸「故きを温ねて」(『全人』第818号 玉川大学出版部 2017年 に所収)