玉川豆知識 No.128

小原國芳の親しき友――チンメルマン博士

小原國芳の親しい友人であり、欧州における「玉川通」として知られたヴェルナー・チンメルマン博士は玉川学園を5度にわたって訪れ、國芳との親交を深めました。國芳が他界した後、6度目の来園。玉川大学名誉教授として玉川学園創立50周年記念式典にも出席されています。

1.小原國芳とチンメルマン博士との出会い

小原國芳の親しい友人であり、玉川学園を「第二の故郷」と慕っていたヴェルナー・チンメルマン博士は1893年生まれのスイスの教育者で、ベルン大学で教育学を修め、ペスタロッチの教育に憧れて山村の若い教師となりました。さらには、青少年の健康の自由生活運動の指導者として活躍されました。

1930年(昭和5)年、チンメルマン博士はアメリカを経てはじめて日本の地を踏まれました。そして博士と小原國芳との運命的な出会いにつながるのでした。博士はかつて『全人教育』第346号に掲載された「玉川学園に寄す」という一文に、その時の様子を次のように記されています。

1930年、私は日本の一客船に乗ってハワイを経由し、初めて日本を訪れたのであった。一人の日本人が、船中で行った私の講演に感銘を受け、私に日本の大都市や学校で話をするようにと頼んできた。そこで私は、スイスの本質的な問題や、教育者としての私の仕事について話をした。東北の弘前に行ったとき、次のようなことが私に告げられた。『日本にもペスタロッチがいる。今から一年前、彼は来京の郊外玉川の丘に、スイスの大偉人の思想に基づいた教育塾を創立し、それを指導している。スイスから来た教師と知ったならば、さぞ喜ぶであろう』と。
この邂逅によって、二人の生涯の友情が結ばれることとなったのである。

博士が初めて玉川学園を訪ねた時のいでたちは、帽子もかぶらず、ネクタイもしめず、玉川シャツ(通称:玉シャツ)のような上衣に半ズボンで、靴下もはかず、革製のワラジをはいて、リュックサック一つだったといいます。その時のことを小原國芳は次のように述べています。

全く、神武天皇の再来かと思いました。一見して好きになりました。魂の融け合い。玉川においてくれと。しかも、学生たちと一緒に住みたい。40日も一緒に生活してくれました。しっかり写真におさめて持って帰りました。ドイツ語の教え方も素敵でした。スイスの歌や踊りも教えてくれました。ピアノも中々巧みでした。山の人だし、乳しぼりも上手だし、山のぼりは特に。

初来園

本学の校歌の作曲者である岡本敏明氏は、チンメルマン博士と会ったときのことを、自身の著作『実践的音楽教育論』において、次のように述べています。

わたしの勤めていた玉川学園に、スイスの教育家チンメルマンが飄然としてやってきて、たくさんの輪唱やアルプスの山の歌を教えてくれました。そして、学校の行事にすぐ結びつけて生きいきと輪唱を指導するチンメルマンから、わたしは多くのものを学んだのです。

ヴァイオリンを演奏するチンメルマン博士

チンメルマン博士が来園した半年後の10月に、小原國芳夫妻が欧米へ教育行脚に出られました。その時、ドイツ、オーストリア、スイス各地での國芳の講演の通訳を、このチンメルマン博士が担当。ベルリンでの講演には、文部大臣も列席されていました。また國芳夫妻は博士のお骨折りによって、ペスタロッチの遺跡めぐりをし、パウル・ゲへープ博士の学校「オ―デンヴァルト・シューレ」を訪ねたりもしました。

その後もお互いに訪問しあうことが多く、1949(昭和24)年にチンメルマン博士が玉川学園に2度目の来園。この時に博士が語られた言葉が、小原國芳著『教育一路』に次のように記されています。

「地球は、われわれの故郷である」とは、スイスのチンメルマン博士が昭和二十四年、二度目の来園をした時の言葉。宇宙時代にはいった今日、この言葉があらためて思い出されます。地球がすべての人々の故郷になるためには真の世界平和を実現しなくてはなりません。子供と教育とを通して、“世界仲良し”を実践してきました。洋の東西から年々、千名前後の研究者の来園です。
教育というものは、教室の中だけで行われるものでなく、地球上のあらゆるところが、宇宙のすべての場所が教育の現場でなければなりません。学生、生徒の国際交流はもとより、先生たちの交流にもつとめました。玉川学園ほど国際交流、国際親善に寄与している学校はない、と自負しております。

玉川学園前駅にて
國芳とチンメルマン博士

続いて1953(昭和28)年の夏、チンメルマン博士は玉川学園に3度目の来園。その際の旅行記を『東方の光、精神的日本』と題して執筆されました。

國芳とチンメルマン博士
礼拝堂にて
ラジオ東京(現在のTBSラジオ)放送の合間に

その2年後の1955(昭和30)年5月には、國芳が渡欧。チンメルマン博士と一緒にヨーロッパ9カ国を歴訪し、12の都市で博士の通訳で講演を行っています。國芳の教育について、つまり玉川教育の目標や方法についての講演は、各都市で強い印象を残し、多くの聴衆から、じっくりとそれを研究し、さらに他の人々にも伝えられるように印刷物にしてほしいという希望が寄せられました。そこで1957(昭和32)年、博士は、『未来の学校-小原國芳の人と仕事-』を執筆。この本は、第一版に6,000冊も刷ったそうですが、またたく間に売り切れてしまったといいます。この本のおかげで、小原國芳と玉川学園の名前は、ヨーロッパ中に拡まりました。博士はこの本の巻末で、國芳を評して、次のように述べています。

もしノーベル賞に価する人がこの地球上にあるとしたら、それは小原である。そして、ノーベル賞委員会が自分のなさざる罪をできるだけ急いで償わないとしたら、この罪は永遠の死を課せられるような罪悪として、即ち致命的ななさざる罪として作用するかもしれない。それともノーベル賞は国家の役人にのみ与えられるのであろうか。あるいは原子爆弾や水素爆弾の製造に従事したような人にのみ与えられるのか。

1958(昭和33)年、奥様と一緒に4度目の来園。國芳との親交を深めました。

國芳宅にて、チンメルマン博士夫妻
小学部にて
國芳とチンメルマン博士

チンメルマン博士の5度目の来園は、1977(昭和52)年の夏。2か月にわたり、単身で國芳宅の客となりました。この時、國芳90歳、チンメルマン博士84歳。実に、お二人の初めての出会いから47年の月日が経過していました。お二人にとってこの世で言葉を交わすのも、この時が最後となったのでした。この年の12月、國芳は玉川学園創立50周年を目前にしながら他界しました。

國芳とチンメルマン博士
大体育館にて通大生のためにピアノ演奏

1980(昭和55)年秋、玉川大学名誉教授として玉川学園創立50周年記念式典に出席するために来日したチンメルマン博士は、エピコ夫人と息子のコンラード君を同伴し、玉川学園に6度目の来園。その博士も、1982年8月29日、祖国スイスの地において89年の人生を終え永眠されました。

創立50周年記念式典の記念祝賀会にて
創立50周年記念式典会場にて
礼拝堂にて講演

関連サイト

参考文献

  • W・チンメルマン(昌谷春海訳)「玉川学園に寄す」(小原國芳監修『全人教育』第346号 玉川大学出版部 1978年 に所収)
  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1976年
  • 小原國芳監修『全人』第24巻第8号 玉川大学出版部 1953年
  • 小原國芳監修『全人』第24巻第10号 玉川大学出版部 1953年
  • 小原哲郎監修『全人教育』第389号 玉川大学出版部 1980年
  • 石橋哲成「チンメルマン博士と小原國芳」(小原哲郎監修『全人教育』第411号 玉川大学出版部 1982年 に所収)
  • 岡本敏明著『実践的音楽教育論』 (株)河合楽器製作所出版部 1974年
  • ウェルナー・チンメルマン「日本での善意と美しさ」(小原哲郎監修『全人教育』第390号 玉川大学出版部 1981年 に所収)
  • ヴェルナー・チンメルマン「日本の子供たちへ――地球は私たちの故郷です――」(小原國芳監修『全人』第19巻第12号 玉川大学出版部 1949年 に所収)
  • ヴェルナー・チンメルマン「平和を求めて」(小原國芳監修『全人』第20巻第1号 玉川大学出版部 1950年 に所収)
  • ヴェルナー・チンメルマン「新イスラエルの建設(その一)」(小原國芳監修『全人』第24巻第7号 玉川大学出版部 1953年 に所収)
  • ヴェルナー・チンメルマン「新イスラエルの建設(その二)」(小原國芳監修『全人』第24巻第9号 玉川大学出版部 1953年 に所収)
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年