玉川豆知識 No.138

成城小学校から玉川学園、成城学園、明星学園、和光学園、トモエ学園へ

成城学園の前身は新宿の牛込原町にあった成城小学校です。その成城小学校および成城学園は、玉川学園、明星学園、和光学園、トモエ学園の誕生に深く関係しています。

1.成城小学校(澤柳政太郎と小原國芳)

澤柳政太郎は成城学園創設者として名を留めていますが、大正自由主義教育運動で中心的な役割を果たすとともに、文部官僚、東北帝国大学初代総長、京都帝国大学第5代総長を歴任した「日本教育界の大御所」でした。成城学校(現在の成城中学校・高等学校)の校長就任にあたり、中学校に新教育を推進する小学校の併設を要求したように、澤柳はかねてより小学校教育への情熱を持っていました。そして成城小学校を設立。

多忙を極めていた澤柳は自ら立ち上げた成城小学校に新教育を推進するため、広島高等師範学校の付属小学校の教務主任(理事)であった小原國芳を招聘し、主事として学校の運営を委ねます。澤柳の成城小学校の創設目標には澤柳の教育信条が盛られ、それは招聘に応じる小原の教育信念に符合していました。澤柳からの招聘に際し、小原はというと、広島を訪れた澤柳の使いである長田新(後に旧制広島文理科大学学長に就任)からの話に、私学での新教育は小原にとっても長年の夢だったこともあり、即答で成城入りを受諾しています。

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2.成城学園の誕生

上述のとおり、新教育の先駆者でもあった澤柳の招きで、1919(大正8)年12月、新宿の牛込原町にあった成城小学校の主事として上京した小原は、1922(大正11)年4月、成城小学校と同じ学風をもった成城第二中学校を新設。しかしその翌年の1923(大正12)年に関東大震災が発生したことから、安全と今後の発展を考え、郊外に新たな土地を探すこととなりました。そして1925(大正14)年、成城第二中学校を郊外の北多摩郡砧村喜多見(現在の世田谷区成城)に移転させるとともに、成城玉川小学校(現在の成城学園初等学校)を併設。さらに小林宗作の協力を得て成城幼稚園を創設し、翌1926(大正15)年には旧制成城高等学校(7年制)を設立。ここに幼稚園から高等学校までを有する成城学園が誕生しました。

成城時代(大正10年)の沢柳政太郎と小原國芳(中央)
成城時代(大正9年)、修身の授業で子供たちに囲まれて話をする小原國芳

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3.玉川学園の誕生

調和のとれた人間形成を目指す学校を、自らの手で、一からつくりたい――小原國芳が「夢の学校」建設に着手したのは、成城高校の校長を務めていた42歳のときでした。それまでは、成城教育の充実、発展、完成、延長に取り組んでいましたが、当時の成城学園が第一義としていたのは、帝国大学への入学を前提とした受験準備教育でした。対して、小原が理想としたのは、「労作教育の使命を果たすこと」、「徹底した真人間の教育を行うこと」を重んじた教育。結果的には、彼が思い描いた「夢の学校」は成城学園から独立し、1929(昭和4)年、玉川学園として産声を上げることとなりました。

ゆめの学校
玉川学園創立当時の玉川の丘
小原國芳42歳の時、岡本敏明や田尾一一らと共に

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参考:玉川大学と千葉工業大学

千葉工業大学の前身である興亜工業大学は、1942(昭和17)年に玉川学園内に設立されました。しかし、戦争の混乱の中、興亜工業大学は玉川学園を離れ、千葉県君津郡君津町(現・君津市)に移転。翌1946(昭和21)年には、国策色の強い旧名称を廃止し、「千葉工業大学」と改称し現在に至っています。

小原國芳と興亜工業大学第1回生

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4.明星学園、和光学園、トモエ学園の誕生

成城第二中学校が北多摩郡砧村喜多見に移転する前年の1924(大正13)年、成城の教師だった赤井米吉、照井猪一郎、照井げん、山本徳行らが井の頭に新たな学校を創立しました。それが明星学園(みょうじょうがくえん)です。

和光学園の誕生にも成城学園と小原國芳が深くかかわっています。
小原は玉川学園創立後も成城学園の園長を兼ねていました。成城学園の教師や生徒の保護者にしてみれば、成城学園の教育に専念してほしいという思いが強くありました。やがて成城学園の教師や保護者は、小原派と反小原派に分かれて対立してしまいました。小原は成城学園を離れ、玉川学園の教育に専念することを決意。小原派の多くの教員は退職、小原派の保護者は子供たちを玉川学園や明星学園に転校させました。しかし、当時の交通事情を考えると、転校が困難な子供たちもいました。そのため、小原派の教師や保護者の中から新しい学校設立の動きが起こり、世田谷区経堂に和光学園が誕生しました。

トモエ学園の誕生にも成城学園と小原國芳が深くかかわっています。
1921(大正10)年に小原國芳らとともに「八大教育主張講演会」で講演者として登壇し、「自由教育の真髄」を語った千葉県師範学校付属小学校主事の手塚岸衛が、1928(昭和3)年に東京府荏原郡碑衾町に学校を設立。「自由教育」を唱道。しかし、1936年(昭和11年)に手塚が死去すると学園は経営難に陥り、中学校部門は藤田喜作に引き継がれました(現在の自由ヶ丘学園高等学校)。創作舞踊の第一人者である石井漠の勧めで、小学校と幼稚園を引き取ったのが、前述の成城幼稚園の創設に協力した小林宗作。彼は成城学園に残っていた小原派の一人。そのため仕事がやりづらい立場にいました。それもあってか彼はその廃校になった学校を引き取ることを決断。こうして1937(昭和12)年にトモエ学園が誕生しました。そして「リトミックによる創造教育」の実践に力を入れました。しかし、東京大空襲で校舎が焼失。それにより1946年(昭和21年)に小学校の部を廃止。その後幼稚園のみ再建しましたが、1963年(昭和38年)の小林の死去に伴い幼稚園は閉園。以後休園。そして1978年(昭和53年)に廃園となりました。

参考文献

  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1980年
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 小原哲郎監修『全人教育』第498号 玉川大学出版部 1989年
  • 石橋哲成著『新教育運動の展開、小原國芳の全人教育思想、そして玉川学園』(特別講演会資料集) 玉川大学学術研究所 2013年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園編『写真集 小原國芳 信』 玉川大学出版部 1978年
  • 成城学園九十年編集小委員会編『成城学園九十年』 成城学園 2008年
  • 成城学園70年の歩み編集委員会編『成城学園70年の歩み』 成城学園 1987年