玉川豆知識 No.141

聖山横穴墓群

大体育館を見下ろす聖山の南側斜面で、1,400年前に生存していた人々が眠る横穴墓群が5基発掘されました。1号横穴墓の発掘は1955(昭和30)年のこと。当時、中学部と高等部の自由研究の生徒と教員が発掘を行いました。さらに1972(昭和47)年にも。1992(平成4)年には教育博物館が主体となり、専門家も加わっての発掘作業が行われました。

1.聖山横穴墓群

町田市は約23,000年前の旧石器時代から近代までの遺跡が約1,000か所もある歴史の町。そして玉川学園のキャンパス内にも本部台遺跡、清水台遺跡など8つの遺跡があり、昔の人たちの暮らしぶりを垣間見ることができます。大体育館を見下ろす聖山の南側斜面でも、1,400年前に生存していた人々が眠る横穴墓群が5基発掘されています。聖山横穴墓群で、8つの遺跡のうち、唯一保存整備されています。その発掘の様子が『全人』第819号の「玉川発見伝⑫」に次のように記述されています。

1955、1972年に当時中学部・高等部の、自由研究の生徒と教員で(第1、2次調査)、1992年に教育博物館主体で発掘が行われ(第3次調査)、計5基の横穴墓の存在が明らかになった。1942年の『全人』には、その10年前にも調査をしたとの記述があり、早くから認知されていたらしい。かつて園児児童は「聖山のほらあな」と呼び、かくれんぼなどで出入りしていたと教育博物館 菅野和郎准教授(現教授)は話す。人骨や鉄鏃(てつぞく)、土器、刀子(とうす)などが出土し、被葬者は7世紀頃に生きた地元の有力者と推定される。

出土された遺物は玉川大学教育博物館に保管されています。

2.第1次発掘調査:1955(昭和30)年

聖山の南側斜面に長い棒を突っ込んでも壁にあたらない穴があるとの中学部生の連絡を受けて、自由研究歴史研究班が発掘調査を開始。1955(昭和30)年のこと。発掘の結果、長さ12㎝の鉄鏃を12本発見。鉄鏃は古墳の副葬品として出土されることが多々ありました。この1号横穴墓からは、さらに前歯1本と柔らかい骨片3つが見つかりました。1号横穴墓は玄室から羨門までの長さが約6m、奥壁幅が約2.5m、玄室高が約1.7mで、聖山横穴墓群では最大。

『全人教育』第538号に掲載の「聖山古墳群の発掘」に、第1次発掘調査のことが次のように記されています。

ドーム状の弧をえがく奥壁には、鋭利な刃物でローム層を削った痕跡が幾条も残っていました。
いつの間にかマダラカマドウマ(ベンジョコウロギ)も姿を消してしまい、放課後や休日、ひまをみては掘っていた私達の発掘も墳墓内の排土と簡単な測量とで終了しました。しかし、後になってわかったことですが、当時の発掘はやはり不十分で、特に墓道には全く手をつけていませんでした。昨年(1992年)の補充調査で、その墓道から美しい緑の自然釉の流れる須恵器片が幾つも出土しましたが、当時発見していればと残念に思います。

1号横穴墓の右横に大きな横穴がありました。2号横穴墓です。この2号横穴墓ついては当時、清掃した程度で調査を終了しました。

3.第2次発掘調査:1972(昭和47)年

1972(昭和47)年に中学部の考古学の部員が、1号横穴墓から約9m左に小さな穴を発見。これが3号横穴墓です。1週間の発掘作業で、上下の顎骨片や大腿骨片と歯が6本、さらに副葬品と思われる鉄製の刀子が1本、発見されました。3号横穴墓は長さが約2.5m、奥壁幅が約2.2m、奥壁高が約1.5m、羨門幅が約0.7m、墓道長が約2.4mで、聖山横穴墓群では最小。

中学部生徒による聖山横穴墓群第3号墓の発掘調査

さらに聖山の南側斜面をボーリング調査してみると、1号横穴墓のすぐ左側で石にあたる感触があり、排土してみると敷石状に石が並んでいました。しかし、その時はその上を鉄管が敷設されていたため発掘を断念。1992年の第3次発掘調査の際に、地下にドーム状の空洞があることを確認。これが4号横穴墓です。

4.第3次発掘調査:1992(平成4)年

1991(平成3)年の水道管埋設工事の際に、2号横穴墓のずっと右のところに大きな穴が開き、5号横穴墓と予測して1992(平成4)年9月8日より第3次発掘調査を開始。今回の調査は教育博物館が主体となり、古墳調査の専門家を加え、中学部や高等部の考古学部の部員も参加して実施。6日間の発掘作業で、聖山横穴墓群の全貌が明らかとなりました。

5号横穴墓は長さが約5.4m、奥壁幅が約2.6m、羨門幅が約0.8m、玄室高が約2.2m、墓道長が約2.5mで、1号横穴墓に次ぐ大きさ。5号横穴墓については、『全人教育』第538号に掲載の「聖山古墳群の発掘」に、次のように記述されています。

墳墓は礼拝堂を背に、ほぼ正確に真南に開口し、羨門右側には入口を示すように河原石が幾つもはめ込まれています。腰をかがめて羨道を抜けると急に天井が高くなり、482個のこぶし大の河原石の敷きつめられた玄室となります。玄室の面積は約4平方メートル。遺体や副葬品はここに置かれたはずだからと、生徒達と敷石直上、石のすき間など可能性の考えられるあたりの土は全て丹念に水洗しましたが、部位不明の小骨片三点が得られただけで、期待したガラス小玉や金環などは遂に一つも得られませんでした。

聖山横穴墓群は教材としても大変貴重なものなので、聖山横穴墓群全体と各横穴墓の説明版を立てることになりました。さらに1号横穴墓、2号横穴墓、3号横穴墓は羨門に扉をつけて外から内部を見ることができるように、4号横穴墓は標柱を立ててその場所がわかるようにしました。5号横穴墓は美しい敷石を見られるように、井戸のようなコンクリートの施設を設置。その施設のふたを開けると、照明に照らされた敷石が数メートル下に見えます。

5.現在の聖山横穴墓群:2020(令和2)年

大学9号館の前の道から聖山に向かって階段を上がって行き、礼拝堂の左手の道を進むとすぐに聖山横穴墓群の標柱が目に入ってきます。そこを左手に降りて行くと、5号横穴墓の井戸のようなコンクリートの施設が目に留まります。さらにその先の階段を下ると2号横穴墓、1号横穴墓、3号横穴墓がこの順番であります。

聖山横穴墓群の標柱
5号横穴墓
5号横穴墓
5号横穴墓から2号横穴墓へ
手前から2号横穴墓、1号横穴墓、3号横穴墓
2号横穴墓
2号横穴墓
1号横穴墓
1号横穴墓
3号横穴墓
3号横穴墓
1号横穴墓から5号横穴墓を臨む
礼拝堂の横の道から見下ろした
2号横穴墓と1号横穴墓
参考
横穴墓
横穴墓(よこあなぼ、おうけつぼ)は、墳墓の一形態で、人間を埋葬するために丘陵斜面に、古墳の石室を模した形の高さ2メートル前後の横穴を掘り作られたもの。墳丘をもたないのが通例。九州北部に5世紀後半に出現。古墳時代から奈良時代にかけての6世紀から8世紀初めに本州全域に広がりました。

参考文献

  • 小原哲郎監修『全人教育』第527号 玉川大学出版部 1992年
  • 小原芳明監修『全人』第819号 玉川大学出版部 2017年
  • 小原芳明監修『全人』第854号 玉川大学出版部 2020年
  • 山口髙弘「聖山古墳群の発掘」(『全人教育』第538号 玉川大学出版部 1993年 に所収)