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玉川豆知識 No.171

玉川学園創立時の住所は東京府南多摩郡町田町

玉川学園創立時の住所は、「東京府南多摩郡町田町 本町田字乙拾八號四千百拾番地」。1967(昭和42)年に住居表示の改正により「東京都町田市玉川学園」に住所が変更。その結果、全国で唯一、学校名と地名、駅名が同じになりました。

1.ゆめの学校の誕生

成城学園の発展に尽力した小原國芳でしたが、40歳のとき、「全人教育の立場からホントの真を掴み、ホントの善を経験し、ホントの美しさを理解し、聖の世界のわかる人間を育成したい」(『教育研究問題・全人』第42号/1930年発行)という思いに駆られ、「ゆめの学校」設立に向けて動き出しました。

ゆめの学校

ゆめの学校を建設するための場所を探しに、小原は小田急線を何度も往復しました。そして好条件が揃っている美しい丘陵地を見つけ購入することに。適度な起伏は「ゆめの学校」にふさわしいと小原は考えていました。「本来、学問と修業の場は山の中にあるもの。比叡山、高野山、身延山、永平寺も、すべて山中にある。山地は建物が増えても眺望がきき、それだけで心が豊かになる」と話していました。まさに上に示した「ゆめの学校」の絵と重なるかのような風景が広がる玉川学園キャンパス。多摩の丘陵地に広がるキャンパスは、小鳥のさえずりと子供たちの歌声が響き渡る、全人教育実践の場として理想的な環境として発展を遂げています。

学園用地の視察(1928年)
玉川学園耕地整理事務所

またこの地が東京府に属していたため、学校開発と同時に住宅地としての分譲もしやすく、そのことが理想の学園都市の誕生に繋がっていきます。当時、新駅を設置するには、駅と駅との間が3マイル(4.8㎞)以上離れていることが条件で、それをクリアできる箇所が小田急線沿線には3か所しかなく、東京府では当地のみでした。しかもこの地は、鶴川駅と町田駅の両駅から遠く離れているため地価が安いという利点もありました。

2.玉川学園建設

玉川学園建設は無一文からの出発でした。小原は多額の借金をして、この地336万㎡を当時の地価の3倍で買収し、その約8割の260万㎡を宅地造成して分譲。残りの土地を学園の敷地として使用しました。土地開発と並行して小田急電鉄と交渉。玉川学園が駅敷地及び駅舎、建築材料降荷のための引込線用の敷地を提供するという条件で、小田急電鉄は「玉川学園前駅」を新設することを確約。駅ができれば通学に便利というだけではなく、地価も上がり、この地に住もうと思う人も増えます。そして、小原は土地分譲の利益を校舎建築などの学校運営のための費用にあてることができました。

玉川学園前駅開業(1929年4月1日)

学園建設のこの地は、東京府と神奈川県の県境にあり、村の中学生が遠方の学校に通学していたため、玉川学園の開設を地域住民は心待ちにしていたようです。校舎上棟式の餅まきには大勢の村人が集まり、隣村の青年団が楽隊を編成するなど大勢の人々の素朴な祝福のうちに、玉川学園は誕生しました。

中学部校舎上棟式(1929年3月4日)
玉川学園開校式(1929年4月8日)
学園づくり労作
玉川学園創立当時のキャンパス(1929年)

1967(昭和42)年の表示改正により、住所が「南多摩郡町田町」から「町田市玉川学園」へと変更となり、学校名と地名、駅名が同じとなりました。これは全国で初めてのことでした。

参考文献

  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1993年
  • 小原國芳「新しく玉川学園が生まれたわけ」(『教育研究問題・全人』第42号 第一出版協会 1930年 に所収)
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 『玉川学園の教育活動 玉川大学の教育活動(2007~2008)』 玉川学園 2007年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 小木新造他『江戸東京学事典』 三省堂 1988年
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 13 東京都』 KADOKAWA 1978年

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