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玉川豆知識 No.176

ノーベル平和賞を受賞した「密林の聖者」シュヴァイツァー博士と玉川学園

医師、神学者、哲学者、オルガニストであったアルベルト・シュヴァイツァー博士は、50有余年にわたりアフリカの赤道直下に位置するガボン共和国のランバレネでの医療活動に生涯を捧げ、その功績により1952(昭和27)年にノーベル平和賞を受賞。「密林の聖者」と呼ばれました。1963(昭和38)年、玉川学園は、学生や生徒たちからの提案で幼稚園から大学までの礼拝での献金を貯めて、当時世界最高級といわれた日本製の顕微鏡を、シュヴァイツァー病院に贈呈しました。

1.シュヴァイツァー博士と玉川学園

今から約60年前の1963(昭和38)年4月30日にシュヴァイツァー博士の令嬢であるレナ・エッケルト氏が来園。この日、ランバレネのシュヴァイツァー病院に顕微鏡を贈る贈呈式を行いました。この2年後、90歳になられた博士は、現地において老衰のため逝去されました。

シュヴァイツァー病院に顕微鏡を贈る贈呈式
シュヴァイツァー病院に贈呈の顕微鏡
玉川から贈られた顕微鏡の前で、シュヴァイツァー博士と令嬢

何故、玉川学園がシュヴァイツァー病院に顕微鏡を贈ることになったのでしょうか。玉川学園創立者小原國芳は講演など事あるごとに敬愛する博士の名前を口にし、その功績について礼拝などの時間に学生や生徒たちに語っていました。そして博士の偉業を称えていました。やがて、その小原の話を聞いた学生や生徒たちからの提案で、幼稚園から大学までの礼拝献金を貯めて、シュヴァイツァー病院に建物を1棟贈ろうということになりました。その申し出に対して博士より、建物はほぼ揃えることができたので、できれば世界的に有名な日本の顕微鏡がほしいという要望がありました。その要望を受けて、当時世界最高級といわれた日本製の顕微鏡を贈ることに決定。そして前述の贈呈式を行うこととなりました。

贈呈式を仲介したのはシュヴァイツァー病院でハンセン病治療に従事していた高橋功氏。高橋氏がこの病院に勤務していたのは、博士の晩年にあたる1958(昭和33)年から1965(昭和40)年までの8年間。高橋氏はハンセン病棟主任として、武子夫人は病院の庶務業務担当として勤務。後に高橋氏は博士の遺品を携えて日本に帰国し、その遺品のほとんどを玉川学園に寄贈。1971(昭和46)年6月のことでした。現在、シュヴァイツァーの関係資料は教育博物館に、関係図書は教育学術情報図書館に所蔵されています。

顕微鏡の寄贈に対する博士からの礼状

教育博物館では、シュヴァイツァー博士の関係資料の一部を常設展示しています。実際に展示されているものは、博士が小原國芳に宛てた書欄、博士の写真や年譜、オルガン演奏中の手型、筆記用具をはじめとする愛用品などです。

常設展示されているシュヴァイツァー博士関連の資料

小原國芳は『全人教育』第194号(1965年発行)の巻頭言で、次のように博士を讃えています。

ランバレーネの聖者、シュワイツァー博士は実に、偉大なる「全人」だった。予言者であり、人類の教師であった。「生命への畏敬」を教え且つ実践した人だった。燃ゆる信仰に生きた人だった。使命感に徹した人だった。秀れたる学者でもあった。キリスト、ポーロ、カント、ゲーテに関する研究は特に深かった。芸術に於いても偉大だった。稀に見るパイプオルガンの演奏者であったし、バッハ研究家でも世界の宝であった。黒人を救うための医学を学び、医師となり、五十年の間、密林の中でキリストそのままの崇い姿だった。無論、ノーベル平和賞の受賞者であり、今世紀において、ロマン・ローラン、タゴール、ガンジー、ネールと並ぶ崇むべきヒューマニストであった。「人間みな兄弟」という信仰を実践した。実に、現代に生きた最も完全な「全人」だった。
かくて、博士は多くの思想家や学者と選を異にして、偉大なる学問を持ちながら、実に「水と原始林の間で」、その思想を、使命を、学問を生活した人であった。実践した人である。偉大なる実行者であった。

2.シュヴァイツァー博士の略歴と功績

シュヴァイツァー博士は、1875(明治8)年1月14日にドイツ領だったアルザスで生まれました。博士は、5歳のときに牧師だった父親からピアノの手ほどきを受け、7歳のときには学校で自作の歌詞を付けた聖歌をオルガンで弾き、教師を驚かせました。8歳になってパイプオルガンを習い始め、9歳のときには教会での礼拝でパイプオルガンの代奏を務めました。学校の教師であった祖父がパイプオルガン弾きでもあり、その才能を受け継いだのでしょう。やがて15歳の年からパイプオルガン手の音楽教師に、大学入学の年からはパリのパイプオルガンの巨匠から指導を受けました。

5歳頃のシュヴァイツァー
後列中央がシュヴァイツァー

比較的裕福な家庭に生まれ、幸せな日々を過ごしてきた博士は、その恩恵を他の人たちに分かち与えるべきではないかと考えるようになりました。当時はまだ21歳で学生であったため、今は勉学に励み、キリストが布教活動を始めたといわれる30歳になったら人に奉仕する活動を行おうと決心。そして、ストラスブール(ドイツ名:シュトラスブルク)大学において神学博士・哲学博士の学位を取得。その後、27歳で母校ストラスブール大学の神学科の講師となりました。また、聖ニコライ教会の副牧師、トマス神学校の寮長を兼任しました。

ストラスブール時代のシュヴァイツァー
ヘレーネ・シュヴァイツァー

博士は30歳になろうとしていた1904(明治37)年の秋のある朝、机の上に置いてあったパリの宣教師協会の活動報告を載せた冊子を読んで、長い間の植民地で生活は厳しく、病気に苦しんでいたアフリカのガボンの実情を知ります。博士は、30歳になったら人に奉仕するという決意を思い出し、医師になってガボンへ行く決心をしました。そのため、ストラスブール大学の医学部に入学、38歳の時に医学博士の学位を取得。そして、自らの著作の印税や演奏会活動での収入を資金として、医療施設に困っていたアフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネへ、前年に結婚したヘレーネ夫人と共に旅立ちました。1913(大正2)年3月26日のことでした。

ランバレネに着いたのは4月13日。現地での医療活動は、鶏小屋での診療で始まりました。やがて、ナマコブリキの小さなバラックである診察小屋が完成。さらに少しずつこの建物の周りに患者を収容する竹小屋ができ、マラリア、フィラリア、寄生虫病、ハンセン病などの熱帯病患者をはじめ、内科・外科的治療を求める人たちが行列を作るようになりました。杖をつきながら3日かけてやって来たり、何日も小舟を漕いでやって来る患者もいました。パリの音楽の師がフランスのバッハ協会に諮ってアフリカ向けに特別に作らせ、餞別に贈ってくれた折角のピアノ、それを弾く暇のないほど博士は多忙な毎日を過ごしていました。

アンデンデの丘の上に開かれた最初の病院

しかし、翌年、第一次世界大戦により、医療活動は中断。ガボンはフランス領だったため、ドイツ国籍であった博士は捕虜に。ある日、宣教師からの依頼で、軍の許可を得て往診に向かいました。その道すがら、自然の中で悠々と生活する動物を見た博士の頭の中に、「生命への畏敬」(命を大切にすること)という言葉が閃きました。博士、41歳のときのことです。この概念を抱いて、後に世界平和にも貢献しました。高橋功氏著「シュワイツァー博士の想い出」(『全人教育』第195号/1965年発行)に次のような記述があります。

博士は、黒人の病気を治すばかりでなく、黒人が生捕りにしてきたゴリラやチンパンジーの子のためポケットマネーを支拂って買いとり、傷付いた彼らを処置し、場合によっては手術も注射もしてやるし、犬や猫や山羊の外傷や皮膚病にも化膿止めや鎮痛の薬剤を塗ってやったり、ヒナをつれたニワトリやアヒルに、ポケットのズボンにいつも用意してあるお米の入った袋をとり出して、まいてやったりしている。灯にまよって部屋に飛びこんでき、戸迷いしている昆虫を、コップと厚紙で捕ってこれを戸口にいって大空に散してやる姿は、神々しいものである。人さえ注意すれば、蚊は刺さずにすむのであるから、これを叩きつぶさず、これを手で放ってやればいいと博士はいうのである。顕微鏡下に細菌がうようよしているのを、病気を治すためにこれからこの細菌を薬で殺さねばならないと思うと胸がいたむ、と博士はいう。その償いのためにいつかどこかで、こまっている動物を助けねばならない、というのが博士の考え方なのである。

その中で、さらに次のようにも語られています。

博士はまたこうもいっている。植民地時代、白人は黒人に対しかずかずの不正不義を行った。その罪を償うのは、慈悲とか善行とかいうなまやさしいものではなく、われわれの責任であり義務である、と。この責任と義務を、「生命の畏敬」というイデェの下に博士はランバレネで五十余年にわたって遂行したのであった。まことにシュワイツァーは実行の人であった。

第一次世界大戦中、捕虜収容所のシュヴァイツァー

1918(大正7)年、交換捕虜として捕虜たちは故郷への帰還が許されました。博士夫妻も戦争により荒廃した故郷へと5年ぶりに戻りました。なんと母親が軍馬に蹴られたのがもとで死亡していました。長い捕虜生活と母親の死で心身ともに弱り果てていた博士は、入院加療を余儀なくされました。その翌年、娘レナが誕生し、博士は明るさを取り戻し、体調も回復に向かいました。

体調を整えた後、博士は、スウェーデン、スイス、イギリス、オランダ、ベルギーなどヨーロッパ各地で講演を行うようになり、また『水と原生林のはざま』の初版本も出版され、一躍有名人となります。5年後、そのおかげで、ランバレネでの莫大な借金の返済や、再度ランバネラを訪ねるための資金が調達できました。1924(大正13)年2月14日に博士は夫人を残したまま単身でランバレネでの医療活動に戻りました。病院はほとんどが倒壊していました。残っていたのはナマコブリキの小さなバラックである診察小屋と、竹小屋の骨組みだけ。博士は診察小屋の修復と、倒壊した小屋の再建をしながら診療を開始。飢餓と赤痢の流行で患者は増える一方でした。赤痢流行のため、隔離室のあるもっと広い病院が必要となり、博士はヨーロッパにいる友人たちからの寄付で新たな病院建設のための資金を調達。さらに3人の同僚に病院を任せて、新しい病院の建築を行う有志の労働者の監督に専念します。そしてついに、1927(昭和2)年に新しい病院が完成。また、病院の周囲にエデンの園を作り、食料を確保しました。

病院全景の鳥瞰図

やがて優秀なスタッフが増え、助手らにも診療を任せられるようになりました。そこで、博士は同僚に病院を委ね帰国。帰国してからの2年間は、資金調達のため、ヨーロッパにおける講演旅行や演奏会活動に日々を費やしました。1929(昭和4)年、博士夫妻は再びランバレネへ向かいました。到着後1年かけて、病舎や食料貯蔵のための倉庫などを建てました。やがて必需品を十分備えた手術室やさまざまな薬品を備えた薬局もでき、また診療に十分対応できる医者と看護師を置くこともできるようになりました。

博士は、このアフリカでの献身的な医療奉仕活動が認められ、1952(昭和27)年にノーベル平和賞を受賞。その賞金の半分を使いシュヴァイツァー賞を制定し、2年に一度、平和活動に貢献したヨーロッパの人たちに賞金を贈呈。残り半分は、ランバレネのシュヴァイツァー病院の隔離病棟等の建設に充てました。1957(昭和32)年及び翌年には、核兵器への反対、核実験の中止をラジオ放送を通じて訴えました。そして、1965(昭和40)年9月4日、シュヴァイツァーは90歳の生涯を閉じ、同地に埋葬されました。

1965年、当時のスタッフと共に
ランバレネにある墓標

シュヴァイツァーは音楽にも精通し、バッハ研究でも有名でした。また、上述のとおりオルガン奏者としてもかなりの実力があり、若き日にはパリのバッハ協会のオルガニストを務め、晩年に至るまで公開演奏を行っていました。音楽研究家としての著作には『バッハ』などがあります。そのほか、思想家として『カントの宗教哲学』、神学者として『イエス伝研究史』、またアフリカの滞在を記録した回想記として『水と原生林のはざまで』などの著作があります。

ギュンスバッハのオルガンを弾く(1930年代)
ギュンスバッハの教会で(1959年)

参考

①ランバレネとシュヴァイツァー病院

高橋功「シュヴァイツァー礼賛」(『館蔵資料目録 シュヴァイツァー関係資料』 1995年発行)に次のような記述があります。

私がこの病院に勤務したのは1958年から65年まで、いわばシュヴァイツァーの晩年にあたる時期である。その頃の白人勤務員は大体ドクター5、看護婦15、事務関係10、計30名という編成であった。それに黒人助手が付いて運営されていた。入院患者約200人、そして癩村住民100人という所帯、それに外来患者約100人を診察するのである。
    (略)
多くの国にシュヴァイツァー後援会があり、そこで選考された人が派遣され、勤務員として採用される仕組みになっている。それぞれ個室が与えられ、作業衣ほか日用品はすべて病院から支給される。私など酒も煙草も不要だから、小遣い銭など一度も貰ったことがなかった。別に出掛ける用もなかったので、よそ行きの服もいらなかった。いわゆる常夏の国だから、開襟シャツにズボン姿で足りる。防暑帽ヘルメットは支給される。
    (略)
果実と野菜は病院の菜園と現地調弁で間に合わせ、肉類はフランスから航空便で輸送してもらうのだから贅沢はできない。それに恵送品が多いので、材料にこと欠くことはない。
    (略)
鐘の合図で6時半起床、7時朝食、8時から12時まで勤務、昼食のあとシエスタ(午睡)の時間があり、午後の勤務は2時から6時まで、7時が夕食。食後の祈りが終わるとシュヴァイツァーは賛美歌の番号を告げてピアノに向かう。見事な序奏の後をうけて一同合唱。そして雑談。

森繁杏子氏(森繁久彌氏夫人)著「世界旅行記 シュワイツァー博士を訪ねて」(『全人教育』 第177号・第178号 1964年発行)にランバレネを訪問した時の様子が次のように書かれ ています。

ランバレネは幅2キロぐらいあるオゴエ河の河口から300キロ位上流の河の中のいわば中の島の様な所にある小さな町である。町に行く人は皆、この渡し場からフェリーボートか、カヌーに乗るのである。
たくさんの実をつけたマンゴウや、名も知れぬ大木が茂り、河岸の土など全然見えぬ程いきなり水の上におおいかぶさって来て、時々岸近く漕ぐ小さなカヌーがその木の下かげに見えがくれするジャングルの様相は、シュワイツァー博士の「水と原生林のはざまにて――」とおっしゃられた言葉とぴったりで興深い景色である。

ランバレネの船着き場
オゴエ河岸で訪問客を見送る博士

病院には、勿論、電気も水道もない。水は雨水をためたものだし、飲料水はこして煮沸してある。貴重な水なので勿論お風呂などはなく、大きな水さしの水で体を拭くだけなので、お風呂を生活と切離せない日本人の高橋博士御夫妻の毎日が、赤道直下なので、特に御大変に思われた。手術室、処置室等には自家発電により電気がつく様になっていて、モナコ大公妃グレース・ケリーから贈られたという無影燈が、種々の人からの寄贈による立派な機械類と一緒に備えつけられている。
    (略)
病理研究室を通った時、女性医師が顕微鏡をのぞいていた。そして私が近付くと、
「これは日本の玉川学園から頂いたもので大変性能がよく素晴らしい。毎日5時間連続で使用しているが何ともありません。玉川の皆様によろしく」
と讃辞を頂いた。高橋博士は、彼女の言葉の裏附をして下さった上に、
「実は癩村で使わして頂こうと楽しみにしていたのですが、あまり素晴らしいので本院の方にとられてしまって、おかげでこちらには本院のお古が廻って来ましたよ」
と嬉しい愚痴を聞かせて下さった。
    (略)
病室は中央に通路をはさんで両側にベッドのある木造トタン葺きで、彼等は種族ごとに共同で自炊をしている。この病院は診察、処置、投薬等、病気に関する一切は無料の上、食事までも支給されるので、癩の様に長い病気の者は、家族ぐるみ、ひどいのは、犬や鶏など家畜まで引きつれてやってくるので大変だ。
日本からの醵金でつくられた日本病棟も一つあった。

89歳のシュヴァイツァー
(前年に完成した日本病棟の前で)

診察室は、他の病棟と同じく木造のトタン屋根の建物で、何の飾り気もない部屋の片隅に、1913年以来という木製の素朴な机の上には博士のたゆまぬ御仕事を物語る先のすり減ったペンがたくさん入った木製のペン皿がおかれていた。
    (略)
博士の机の上や書棚にはあちこちにたくさんの猫がうずくまっており、診察室の中までも山羊や犬や鶏が入って来る。博士は動物たちを、その信条の“生命の畏敬”のゆえに殊に愛され、病院内に飼ってある動物は食肉のものであっても決して殺さないと自らおっしゃった。

動物を慈しむシュヴァイツァー

②博士のご令孫クリスティアーネ・エンゲル女史が来園

シュヴァイツァー病院に顕微鏡を贈呈した7年後の1970(昭和45)年、シュヴァイツァー博士のご令孫クリスティアーネ・エンゲル女史が来園。礼拝堂で演奏を披露。1972(昭和47)年と1975(昭和50)年にも来園し、玉川大学管弦楽団と共演。それから20年後の1995(平成7)年に4度目の来園。5度目の来園となった2013(平成25)年には、玉川大学管弦楽団の伴奏のもと、「ピアノコンチェルトの夕べ」が開催されました。

1972(昭和47)年
1972(昭和47)年
2013(平成25)年

③写真で見るシュヴァイツァー博士

ランバレネの書斎で
第一次ランバレネ滞在の頃
シュヴァイツァー病院
診療前に並ぶ外来の患者たち
研究所
ハンセン病舎
アンデンデの丘のベンチにて
オゴエ河の岸に立つ博士

④写真で見るシュヴァイツァー博士関係資料

シュヴゥイツァー像
シュヴァイツァーの手型
筆記用具
ハンカチ、蝶ネクタイ、ベルト
シュヴゥイツァーの作業衣、餌袋、
ナフキン入れと病院のスプーン、フォーク
ガボン共和国の敷物、ござ、籠、ほうき、髪飾り
ガボン共和国の民具・玩具
ガボン共和国の舟の模型
ガボン共和国の仮面と男子像・女子像
ガボン共和国の楽器(ハープとタムタム)
シュヴァイツァー病院の木材標本
シュヴァイツァー病院の職員の寄せ書き

参考文献

  • 小原國芳監修『全人教育』 玉川大学出版部
       第146号(1961年)、第166号、第168号、第171号(1963年)、
       第177号、第178号、第182号(1964年)、
       第185号、第187号、第191号、第194号、第195号(1965年)、
       第201号、第205号(1966年)、第264号(1971年)
  • 小原哲郎監修『全人教育』 玉川大学出版部
       第569号(1995年)
  • 小原芳明監修『全人』 玉川大学出版部
       第668号(2004年)、第751号(2011年)
  • 小原哲郎監修『玉川学園教育博物館館蔵資料展展示目録』 玉川大学教育博物館 1987年
  • 『館蔵資料目録 シュヴァイツァー関係資料』 玉川学園教育博物館 1995年
  • 高橋功「シュヴァイツァー博士」(『全人教育』第146号 玉川大学出版部 1961年 に所収)
  • 高橋功「シュワイツァー博士の想い出」(『全人教育』第195号 玉川大学出版部 1965年 に所収)
  • 高橋功「シュヴァイツァー礼賛」(『館蔵資料目録 シュヴァイツァー関係資料』 玉川学園教育博物館 1995年 に所収)
  • 高橋功著『アルベルト・シュヴァイツァー』 高橋功著作刊行会 1989年
  • 高橋功著『シュワイツァー小伝』 玉川大学出版部 1964年
  • 長谷川洋二「アルベルト・シュワイツァーとパウ・カザルスとガスパール・カサード――三者をめぐる伝記的一考察――」(『シュワイツァー研究』第23号 日本シュワイツァー友の会 1995年 に所収)
  • 森繁杏子「世界旅行記 シュワイツァー博士を訪ねて」(『全人教育』第177号・第178号 玉川大学出版部 1964年 に所収)
  • 白柳弘幸「玉川の丘めぐり⑬/教育博物館 シュヴァイツァー博士のメッセージ」(『全人』第751号 玉川大学出版部 2011年 に所収)
  • アルベルト・シュヴァイツァー著、竹山道雄訳『わが生活と思想より』(自叙伝)白水社 1939年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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