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玉川豆知識 No.181

遥か彼方を見つめる小原國芳の胸像

小原國芳の胸像は、聖山の東側、松や檜の間に、西の山々に向かって設置されました。しかし、戦後になって盗難に遭い、再建された胸像は西方向ではなく南方向を望む位置に置かれました。約65年の月日が流れ、玉川学園創立100周年に向けた聖山整備事業に伴い、胸像は再び遥か彼方、丹沢や秩父の山々が見渡せる、西を向く方向に設置し直されました。

1.盗難にあった後、再建された小原國芳の胸像

1932(昭和7)年8月2日に二科会の彫刻部長であった藤川勇造の手によって小原國芳の胸像が造られ、1934(昭和9)年2月11日に除幕式が執り行われました。胸像は、聖山の東側、松や檜の間に、西の山々に向かって設置されました。聖山は学内で一番高く、標高は107.19メートル。西北方向に丹沢や秩父の山々が見渡せます。

藤川勇造(左)と小原國芳
小原國芳像から臨む聖山

胸像の台に刻まれている文字は、玉川学園の校歌を作詞した田尾一一の筆によるもの。しかし、この胸像は、戦後になって盗難に遭い、ついにその行方はわからないままとなってしまいました。

その後、1956(昭和31)年に小原國芳の胸像が再建されることになり、美術の教授であった山田貞実と大学美術部の学生たちによる3か月におよぶ大労作により胸像は造られました。

新たに造られた小原の胸像は、1957(昭和32)年2月28日に除幕式が行われ、この日から、以前の台座の上に再び小原の胸像が置かれました。

再建された小原國芳の胸像の除幕式

小原の胸像のある聖山には、毎朝塾生たちが集まってきて「聖山礼拝」を行っていました。小原も聖山礼拝に参加し、まるく円をつくった学生たちの輪の中に入って、祈り、讃美歌を歌い、こころを穏やかにして一日を迎えていました。

聖山礼拝
聖山礼拝

2.胸像が置かれた場所

聖山は玉川学園町の丘陵の中でも一番高い丘で、玉川学園開校以前は丹沢の尾根の間から富士山も望めました。開学当初の聖山は、木々が密集した狭い空間でしたが、学生たちの労作によって徐々に木を切り、草を刈り、芝生を植えて、訪れた誰もがこころを穏やかにする場所となりました。やがて、芝生のところには木や草が植えられ、礼拝堂との間に池が整備されました。そのような聖山の移り変わりの中で、西の山々に向かって設置されていた小原國芳の胸像も、聖山の南を向く場所に移されました。これは礼拝堂の方から聖山に上って行ったときに、胸像にすぐに挨拶ができるようにという理由からのようです。

2019(令和元)年に玉川学園創立100周年に向けた聖山整備事業を開始し、古木等による倒木、周りを見渡すことができない見通しの悪さ等の問題を解決し、キャンパス周辺の眺望が望める開放的な樹林地として植生を整え、明るく開放的な環境へ整備しています。その結果、丹沢や秩父の山々が以前のように見渡せるようになったこともあり、胸像は再び西を向く位置に移動されました。そして小原國芳の胸像は、今日も、丹沢や秩父の山々など遥か彼方を見つめていることでしょう。

参考文献

  • 小原國芳監修『全人』第81号 玉川大学出版部 1956年
  • 小原國芳監修『全人』第92号 玉川大学出版部 1957年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』玉川学園 1980年

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