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玉川豆知識 No.182

半ズボンで革製のわらじをはき、リュックサック一つでやって来た珍客 チンメルマン博士

小原國芳の親しい友人であり、欧州における「玉川通」として知られたヴェルナー・チンメルマン博士は玉川学園を5度にわたって訪れ、小原との親交を深めました。小原が他界した後、6度目の来園。玉川大学名誉教授として玉川学園創立50周年記念式典に出席されました。

1.ヴェルナー・チンメルマン博士

ヴェルナー・チンメルマン博士

ヴェルナー・チンメルマン博士は1893(明治26)年生まれのスイスの教育者。ベルン大学で教育学を修め、ペスタロッチの教育に憧れて山村の若い教師となりました。さらには、母国であるスイスをはじめ、ドイツやオーストリアにおける新教育運動、青少年の健康の自由生活運動、平和への社会運動などに関する講演をしつつ、教育家として子供たちへの幅広い活動を行いました。

1930(昭和5)年、博士は「真の教育とは何か」を追求するために、16か月前にスイスを出発してイギリス、南米、中米、アメリカ、カナダ、ハワイを経て日本へとやって来ました。ハワイから日本に向かう船の中で博士は講演を行いました。その講演の内容に感銘を受けた一人の日本人が、学校などで話をしてほしいと頼んできました。博士が青森県の弘前に行った際に、博士と小原國芳を結びつけるある言葉と出会います。そのことが、『全人教育』第346号(玉川大学出版部 1978年発行)に掲載されている博士の「玉川に寄す」の一文に、つぎのように記されています。

東北の弘前に行ったとき、次のようなことが私に告げられた。『日本にもペスタロッチがいる。今から一年前、彼は東京の郊外玉川の丘にスイスの大偉人の思想に基づいた教育塾を創立し、それを指導している。スイスから来た教師を知ったならば、さぞ喜ぶだろう』と。
この邂逅(かいこう)によって二人の生涯の友情が結ばれることとなったのである。

そして、ある日、博士は玉川の丘にやって来ました。

2.チンメルマン博士が初来園

博士が初めて玉川学園を訪れた時のいでたちは、帽子もかぶらず、ネクタイもしめず、半ズボンで、靴下もはかず、革製のわらじをはいて、リュックサック一つだったといいます。その時のことを『教育とわが生涯 小原國芳』(玉川大学出版部/1977年発行)で、小原國芳はつぎのように述べています。

その年の三月、玉川の小原家の門前に、風変わりな西洋人が立った。
(略)
帽子もかぶらず、ノーネクタイ、半ズボンからスネ毛を出し足もとを見るとはだしに皮のわらじをはいている。肩にかけたリュックサックが唯一の荷物であった。「チンメルマン」と名のって「スイス人だが世界旅行をしている途中、日本に立ち寄った。東北地方で玉川学園の話を聞いた。一カ月ほど泊めてくれ」という。
素朴な人柄のようだし、スイスといえばペスタロッチの国であるのも好意が持てた。
学生と一緒に寝泊まりしたいというのでそうすると、ピアノもひけるし、乳しぼりなど堂に入っている。時間割りのドイツ語を教えるかたわら、フォークダンスやスイスの体操を手をとって指導する。
生徒たちもすっかりなついて、「チンさん」の愛称で人気者になった。

初来園時のチンメルマン博士と子供たち

その時のことが、石橋哲成著「チンメルマン博士と小原國芳」(『全人教育』第411号/玉川大学出版部/1982年に所収)にはつぎのように記されています。

小原先生は書かれている。「全く、神武天皇の再来かと思いました。一見して好きになりました。魂の融け合い。玉川においてくれと。しかも、学生たちと一緒に住みたい。四十日も一緒に生活してくれました。しっかり写真におさめて持って帰りました。ドイツ語の教え方も素敵でした。スイスの歌や踊りも教えてくれました。ピアノも中々巧みでした。山の人だし、乳しぼりも上手だし、山のぼりは特に」と。

ヴァイオリンを演奏するチンメルマン博士

また、本学の校歌の作曲者である岡本敏明は、博士と会ったときのことを、自身の著作『実践的音楽教育論』において、つぎのように述べています。

わたしの勤めていた玉川学園に、スイスの教育家チンメルマンが飄然としてやってきて、たくさんの輪唱やアルプスの山の歌を教えてくれました。そして、学校の行事にすぐ結びつけて生きいきと輪唱を指導するチンメルマンから、わたしは多くのものを学んだのです。

3.『かえるの合唱(かえるのうた)』の誕生

「かえるのうたがきこえてくるよ クヮ クヮ クヮ クヮ ケケケケ ケケケケ クヮクヮクヮ」。代表的な輪唱曲である『かえるの合唱(かえるのうた)』。この歌はチンメルマン博士が玉川学園に滞在していた折りに、岡本敏明に教えたドイツ民謡が基となっています。その曲に岡本が日本の子供のために作詞をしたものが、「かえるの合唱(かえるのうた)」として知られるようになったのでした。岡本によれば、「かえるの合唱(かえるのうた)」は博士から教えてもらった歌の中で、最初に日本語の歌詞をつけたものであり、この経験から数多くの輪唱を日本に紹介したといいます。

4.小原國芳の欧米での教育行脚とチンメルマン博士

博士が玉川学園を初めて訪れた年の10月には、欧米へ教育行脚に出られた小原の、ドイツ、オーストリア、スイス各地での講演の通訳を博士がつとめられました。また小原夫妻は博士の案内で、ペスタロッチの遺跡めぐりをし、パウル・ゲへープ博士の学校「オ―デンヴァルト・シューレ」を訪ねたりもしました。小原の海外の視察と講演行脚は、ヨーロッパ、北米、中南米、中国、韓国など戦前、戦後を通じて十数回を数えますが、そのきっかけとなったのが博士でした。『教育とわが生涯 小原國芳』に、博士が初めて玉川学園を訪れ、そして帰国し、小原の欧米教育行脚を迎えるまでのことがつぎのように記述されています。

生徒たちもすっかりなついて、『チンさん』の愛称で人気者となった。チンメルマンの方も、玉川の労作教育に驚いた。四十日間にわたって写真や映画に学園のもようを写して帰国したが、帰国後、スイスからしきりにヨーロッパへ来いといってくる。玉川で写した映画を持って彼はスイスだけでなく、ドイツ、オーストリアをまわった。反響がすごいから、ぜひ出かけてくれというわけだ。三国にまたがる約百万の団員を持つ青年団長がチンメルマンの役であった。
(略)
ヨーロッパ入りすると、チンメルマンが万端準備を整えていた。チューリッヒ、ベルン、ウィーン、ミュンヘン、シュツットガルト、ベルリン、ハンブルクなど、各地で講演会の切符が前売りされている。
(略)
ハンブルクでは六千枚売れて四千人収容の大公会堂が超満員になったため、同じ講演をもう一晩、熱演した。
(略)
ベルリンでは聴衆約三千人。文部大臣が最前列で聞きいった。

文部大臣陪席のもとベルリン市での講演の様子

戦後、小原は博士の案内のもと、再びヨーロッパ各地で40回にわたる講演を行っています。

5.約50年にわたるチンメルマン博士と小原國芳との親交

その後もお互いに訪問しあうことが多く、1949(昭和24)年に博士が玉川学園に2度目の来園。この時に博士が語られた言葉が、小原國芳著『教育一路』に次のように記されています。

「地球は、われわれの故郷である」とは、スイスのチンメルマン博士が昭和二十四年、二度目の来園をした時の言葉。宇宙時代にはいった今日、この言葉があらためて思い出されます。地球がすべての人々の故郷になるためには真の世界平和を実現しなくてはなりません。子供と教育とを通して、“世界仲良し”を実践してきました。洋の東西から年々、千名前後の研究者の来園です。
教育というものは、教室の中だけで行われるものでなく、地球上のあらゆるところが、宇宙のすべての場所が教育の現場でなければなりません。学生、生徒の国際交流はもとより、先生たちの交流にもつとめました。玉川学園ほど国際交流、国際親善に寄与している学校はない、と自負しております。

博士は1949(昭和24)年に続いて1953(昭和28)年にも玉川学園を訪れ、その際の旅行記を『東方の光、精神的日本』と題して執筆しています。

ラジオ東京(現在のTBSラジオ)放送の合間に

その2年後の1955(昭和30)年5月には、小原が渡欧。博士と一緒にヨーロッパ9か国を歴訪し、12の都市で博士の通訳で講演を行っています。小原の教育について、つまり玉川教育の目標や方法についての講演は、各都市で強い印象を残し、多くの聴衆からじっくりとそれを研究し、さらに他の人々にも伝えられるように印刷物にしてほしいという希望が寄せられました。そこで1957(昭和32)年、博士は、『未来の学校-小原國芳の人と仕事-』を執筆。この本は、第一版に6,000冊も刷ったそうですが、またたく間に売り切れてしまったといいます。この本のおかげで、小原國芳と玉川学園の名前は、ヨーロッパ中に拡まりました。博士はこの本の巻末で、小原を評して、次のように述べています。

もしノーベル賞に価する人がこの地球上にあるとしたら、それは小原である。そして、ノーベル賞委員会が自分のなさざる罪をできるだけ急いで償わないとしたら、この罪は永遠の死を課せられるような罪悪として、即ち致命的ななさざる罪として作用するかもしれない。それともノーベル賞は国家の役人にのみ与えられるのであろうか。あるいは原子爆弾や水素爆弾の製造に従事したような人にのみ与えられるのか。

ストックホルム体育大学の門を出る小原と博士

1958(昭和33)年、博士は奥様と一緒に4度目の来園。小原との親交を深めました。

小原宅にて、博士とエヴァ夫人
小学部にて

1977(昭和52)年の博士の5度目の訪問は単身で、しかも2か月にわたって小原宅の客となりました。このとき、小原は90歳、博士は84歳。二人の初めての出会いから47年の月日が流れていました。二人にとってこの世で言葉を交わすのも、この時が最後となったのでした。この年の12月、小原は玉川学園創立50周年を目前にしながら他界しました。

大体育館にて通大生のためのピアノ演奏会

1980(昭和55)年の秋、博士は玉川大学名誉教授として玉川学園創立50周年記念式典に出席するために6度目の来園。エヴァ夫人と息子のコンラッド君を同伴して。

創立50周年記念式典会場にて
創立50周年記念式典の記念祝賀会にて
礼拝堂にて講演
エヴァ夫人と息子のコンラード君と

そして、博士も1982(昭和57)8月29日、祖国スイスの地において89年の人生を終えることに。親日家であった博士は、日本の宗教、文化を研究し、『アジアの光』や『光は東より』などの本を出すとともに、『未来の学校-小原國芳の人と仕事』を書くなど玉川学園を「第二の故郷」と慕う教育家でした。

小原は、博士から受けた教訓をつぎのように記していました。

一.心から心への教育。外交とか交流は、その中に飛び込み、またその家に泊まるなどすること、言葉以上の魂を以って接することこそが真の国際交流である。
二.博士は語学が堪能なだけではなく、ピアノ、ヴァイオリン、舞踊、教え方や表情の豊かさが全人である。

6.写真で見るチンメルマン博士

参考文献

  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1976年
  • 小原國芳監修『全人』第24巻第8号 玉川大学出版部 1953年
  • 小原國芳監修『全人』第24巻第10号 玉川大学出版部 1953年
  • 小原哲郎監修『全人教育』第389号 玉川大学出版部 1980年
  • ヴェルナー・チンメルマン「玉川学園に寄す」(『全人教育』第346号 玉川大学出版部 1978年 に所収)
  • ウェルナー・チンメルマン「日本での善意と美しさ」(『全人教育』第390号 玉川大学出版部 1981年 に所収)
  • ヴェルナー・チンメルマン「日本の子供たちへ――地球は私たちの故郷です――」(『全人』第19巻第12号 玉川大学出版部 1949年 に所収)
  • ヴェルナー・チンメルマン「平和を求めて」(『全人』第20巻第1号 玉川大学出版部 1950年 に所収)
  • ヴェルナー・チンメルマン「新イスラエルの建設(その一)」(『全人』第24巻第7号 玉川大学出版部 1953年 に所収)
  • ヴェルナー・チンメルマン「新イスラエルの建設(その二)」(『全人』第24巻第9号 玉川大学出版部 1953年 に所収)
  • 岡本敏明著『実践的音楽教育論』 (株)河合楽器製作所出版部 1974年
  • 石橋哲成「チンメルマン博士と小原國芳」(『全人教育』第411号 玉川大学出版部 1982年 に所収)
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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