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玉川豆知識 No.56

究極のクール・ビズ「玉シャツ」

省エネ対策でクール・ビズがすっかり定着しましたが、実は今から80年以上前にすでに究極のクール・ビズが誕生していました。それが「玉川シャツ」、通称「玉シャツ」です。

玉川学園では、夏服として、男子の児童や生徒は玉シャツを着用します。玉シャツは、白色の開襟シャツで、玉川学園創立から4年後の1933(昭和8)年に誕生したという説もありますが、残念ながら正確な年月は不明です。創立時に玉シャツがなかったことは確かなようです。考案者は玉川学園の創立者である小原國芳。國芳自らも好んで着用しました。國芳ばかりではなく、男性の先生方の中にも愛用者が数多くいました。

2003(平成15)年5月号の『全人』No.658(玉川大学出版部発行)の「故きを温ねて(ふるきをたずねて)」につぎのような記述があります。

髪型やネクタイや、シャツやクツ下の色、問題は沢山あります。すべてが人格の表現であり、「人」が表れます。(小原國芳著『母のための教育学』(玉川大学出版部刊)より)

玉川っ子男子児童生徒の夏の服装は、開襟のデザインがユニークな玉シャツ。玉シャツが初めて着用された正確な年月については、残念ながら不明である。昭和七年五月三〇日の出来事として、「勞作は何時もの續きの塾生のシャツ作り」と、当時の女子部生が『学園日記』(『全人』の前身)に書いているのが初見である。それを遡る二年前の昭和五年に、「服装も今に輕快なものを作りたいと考へてゐるのです」(『学園日記』十二号)と小原國芳が述べている。玉シャツは創立時にはなかったようである。
小原哲郎名誉総長は玉シャツの生まれた経緯について、「欧米教育視察の折、南洋の人々の服装にふれたことが、玉シャツ誕生の元になっていたのではないか」と回想する。

男子児童・生徒は玉シャツを着用

玉シャツは、裾をズボンの外に出して着ることになっています。それはその方が涼しいからということもありますが、「ベルトは人に見せるものではない」という國芳の哲学に拠ります。上着を着ている時と同じようにベルトが見えないようにするということです。つまり玉シャツは、紳士としての礼儀に叶う服装として、さわやかでしかも涼しく、クール・ビズの先駆けと言えます。

2003(平成15)年6月号の『全人』No.659(玉川学園出版部発行)の「故きを温ねて(ふるきをたずねて)」に、海部俊樹氏(元文部大臣、のちに総理大臣)や森繁久彌氏(俳優)、勝田吉太郎氏(当時京都大学教授)が来園したときのことがつぎのように記述されています。

先生は玉川シヤツといふのを發明されたが、他とちがふところは、バンドが見えぬようになつてゐるだけのしかけである。(諸星洪著『玉川のおやじ』(玉川大学出版部刊)より)

昭和五三年八月、通信教育部主催の夏期教育研修会が行われた。(略)その会の講師として先の方々が招かれ、小原記念館のお客の間にて昼食を共にしている時の一コマである。当然のことであるが、夏の玉川の丘は暑い。その暑さに加え、向学心に燃える人々の熱気のために、さらに地表気温が上昇しているのである。歓談の折、小原哲郎が、「玉川の夏のユニフォームですが、いかがですか」と着用を勧めたのである。
海部氏は昼食後の講演時、文部大臣経験をふまえて「教育者に望む」という講話をされた。開口一番、「玉川シャツは楽でよい。気持ちよく話せます」と言われた。

1969年6月、國芳の「全人教育論」の講義。
長袖の玉シャツは珍しい。

玉シャツは、シャツ一枚でも上着を着ているような品格が保たれるよう、裾はまっすぐに裁断されており、襟の仕立ては曲線を生かしたイタリアンカラーを使うこだわりのあるデザインを取り入れています。日本の熱い夏を乗り切るために、玉シャツを考案し、児童や生徒、教職員に着用させた國芳の先見性は素晴らしいと言えるでしょう。

夏服への衣替えの季節になると、小田急線の電車の中は白い玉シャツ姿の児童、生徒でいっぱい。その姿を見て夏が来たと感じる人も多いのではないでしょうか。

参考文献

『玉川学園の教育』 玉川学園 2004年
『玉川学園創立80周年記念誌』 玉川学園 2010年
白柳弘幸著『故きを温ねて』(『全人』No.658、No.659) 玉川大学出版部 2003年

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