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玉川豆知識 No.82

「城ケ島の雨」「どんぐりころころ」の作曲家梁田貞と小原國芳

1922(大正11)年、成城尋常小学校主事であった小原國芳は梁田貞を音楽教師として迎えいれました。そして二人の親交がそこから始まります。やがて國芳は玉川学園を創立し、玉川大学に梁田を招聘、二人の信頼関係は深まっていきました。

1.梁田貞(やなだ ただし)と小原國芳

梁田貞は、「城ケ島の雨」「どんぐりころころ」「沖の小島」「村の道ぶしん」などの作曲で知られ、日本の音楽史上に大きな足跡を残しました。梁田と玉川学園創立者小原國芳との親交は、1922(大正11)年、当時牛込の成城尋常小学校主事であった國芳が梁田を音楽教師として迎えてより始まりました。音楽を教えていた真篠敏雄がパイプオルガンの修練のためにベルリン大学に5カ年の留学に行くこととなり、その後任に真篠が推薦したのが梁田でした。そして國芳は玉川学園を創立し、1948(昭和23)年には梁田を玉川大学に招聘。その後、二人の信頼関係は終生変わることがありませんでした。

梁田が40歳頃の肖像画(高橋二三男画)
卒業生の協力によって城ケ島に建てられた
『城ケ島の雨』の楽譜の冒頭が刻まれた碑

小原國芳著『小原國芳全集 29巻』(玉川大学出版部発行)において、國芳は梁田のことを次のように記述しています。

梁田貞先生は全く清らかなもの。童謡作家では、山田耕筰、成田為三、弘田竜太郎といった一流仲間。清純な宗教的な倫理的な清い作曲。「沖の小島」、「小雀」、「柳小路」、「昼の夢」、特に「城ケ島の雨」は有名。声の、とてもキレイな人でした。追分なぞは本職の芸者たちがハダシ。
外国の歌も沢山教えて下さいました。「サンタルチヤ」だの、「オーソレミオ」だの、「ローレライ」だの、とても、いい歌を一杯教えて下さいました。
しかも、教え方がキビしいものでした。コーリューブンゲンの基礎訓練は鍛えられました。音楽教育であると同時に偉大な道徳教育でした。成城初代の諸君の人間形成には全く大きな力でした。
あのきれいなお声で、なぜ、レコードに「城ケ島の雨」を吹き込んでもらって居なかったか。そのことは私の一生涯の最大の怠慢の一つでした。私がオネダリすると、いつでも歌って下すった方でしたのに!

2.創成小学校(現在の資生館小学校)の胸像と音楽碑

記念音楽会で演奏・合唱する高等部生

梁田の永眠後の1968(昭和43)年5月9日、札幌の創成小学校において梁田の胸像と音楽碑の除幕式が行われました。胸像は白御影の台の上に置かれ、音楽碑は大きな黒御影の石に「どんぐりころころ」の曲が彫られています。國芳は自ら高等部生350名を引率して除幕式に参列。高等部生が合唱と玉川体操を披露、その傍らで涙ながらに聴いていた國芳の姿が印象的でした。高等部2年生350名は、札幌市民会館で開催された記念音楽会にも参加。彼らはこの日のために修学旅行の日程を繰り上げての出演でした。

創成小学校での胸像と音楽碑の除幕式のことが、岩崎呉夫著『音楽の師 梁田貞』(東京音楽社発行)に次のように記されています。

昭和四十三年五月九日午前十時、北海道札幌市の中心部にある創成小学校正門脇で、作曲家としてまた音楽教育家として日本音楽史上に忘れられぬ足跡をのこした梁田貞の、音楽碑および胸像の除幕式がおこなわれた。この日は貞の命日にあたっていた。昭和三十四年に永眠してから九年の歳月がながれ、貞は七十数年前そこを巣立った懐かしい母校の庭に、永くその名と面影とをとどめることになったのである。
式は、東京の玉川学園高等部の生徒三百五十人のうたう貞の作品「われら若人」のコーラスによってひらかれた。
玉川学園は、生前もっともよき貞の理解者のひとりであった小原國芳の創設した学校である。貞は昭和十年からここで音楽を教え、昭和二十三年からは玉川大学助教授をつとめていた。貞と小原との終生かわることのなかった信頼関係についてはおいおい触れてゆくが、そもそもは大正十一年、小原が成城尋常小学校主事として貞を迎えた時にはじまっている。以来、成城学園から玉川学園へと、貞は請われるままに小原とつねに不離の関係を保った。その後、戦中戦後をはさむ晩年の、身辺やや寂しさもあった(貞には子どもがいなかった)貞をあたたかく遇してきた小原は、貞の永眠の日から心にふかく音楽碑設立の悲願をいだきつづけていた。音楽碑はもちろん、愛弟子であった声楽家の奥田良三ほか数多くの教え子や一般音楽愛好家たちのおしみない賛同と協力をえて建立されたものである。ただ、小原の内なる悲願が推進の軸となっていたことは確かである。
小原は胸像の台座の銅版に「楽聖梁田貞先生」の文字を揮った。「楽聖」の一語には、小原の貞にたいする全幅の尊敬と親愛の情がこめられているように思われる。

創成小学校での梁田貞先生音楽碑除幕式
梁田貞先生音楽記念碑の前に立つ小原國芳
札幌市立資生館小学校の敷地内にある梁田貞の胸像と音楽碑
梁田貞先生胸像の傍に置かれた「どんぐりころころ」の曲碑

3.梁田貞生誕百年記念音楽会

梁田貞先生の筆蹟「純真是詩歌」

1985(昭和60)年7月3日午後6時より、日比谷の第一生命ホールにおいて、「梁田貞先生生誕百年記念音楽会」が開催されました。玉川学園からは酒井常務理事をはじめ、大学合唱団、卒業生、父母など多数が参加。ありし日の先生を偲び、先生の歌を心から楽しみました。最後に愛弟子であった奥田良三昭和音楽大学長(当時)が「城ケ島の雨」をしみじみと歌われました。

4.玉川大学出版部発行の『梁田貞名曲集』

岩崎呉夫著『音楽の師 梁田貞』(東京音楽社発行)において、『梁田貞名曲集』が次のように紹介されています。

この『名曲集』は貞の没後、貞を哀惜し思慕し追悼するの情切なるものがあった小原國芳によって企画推進され、生前の友人知己や教え子たちの有形無形の協力を得て、昭和三十六年十一月、玉川大学出版部から刊行されたものである。B5判三八〇ページの豪華本で、収録作品は「童謡・唱歌」篇一〇七曲、「歌曲」篇四十九曲の計一五六曲。楽譜および歌詞が掲載されているばかりでなく、各所にその作品とかかわりの深かった作詞・作詩者の思い出話などが織りこまれ、また初出誌の表紙写真のいくつかも載せられるなど、貞の作品をよりよく理解させるような配慮がおこなわれている。編集・監修は葛原しげる、小松耕輔、奥田良二。貞の名曲を後世に伝えるための貴重な本であり、機会があればぜひ一見一読をすすめたい。

成城小学校の先生方。前列左から2人目が梁田、5人目が沢柳政太郎、6人目が國芳

梁田貞略歴(1885年-1959年)

1885(明治18)年、札幌生まれ。1912(大正元)年、東京音楽学校本科声楽科ピアノ専攻科卒業。卒業後、研究生の傍ら東京府立第一中学校(都立日比谷高校の前身)教諭を経て、港区新星中学校、青山中学校教諭に。その後、東京音楽学校や学習院の講師を経て成城学園、玉川学園・玉川大学、旧制成蹊高校、早稲田大学などでも教えられました。
旧制玉川大学が開設された1947(昭和22)年の玉川大学教員一覧には、音楽担当教員として岡本敏明と梁田の二人の名前が記載されています。実際に梁田が授業を担当したのは翌年からでした。
晩年、梁田は病気に罹り、長い間の入院生活を過ごしていました。その後夫人も病に倒れ同じ病院に入院。間もなく夫人は亡くなられました。梁田はその夫人の死を知らぬまま1959(昭和34)年、この世を去りました。
その後梁田を慕う者たちの手で、三浦三崎に「城ケ島の雨」の音楽碑が作られ、札幌の創成小学校には梁田の胸像と「どんぐりころころ」の音楽碑が建てられました。さらに玉川大学出版部より『梁田貞名曲集』が刊行されました。また、東映が教育映画として「音楽教師」というタイトルで映画を制作。そして、1985(昭和60)年には、日比谷の第一生命ホールにおいて、「梁田貞先生生誕百年記念音楽会」が開催されました。
梁田が作曲した作品は童謡、唱歌から歌謡曲にまで広がっています。また、「日本大学二代目校歌」や「大東文化大学学生歌」といった曲も作曲。代表曲は以下の通りです。

曲名作詞者
城ケ島の雨 北原白秋
どんぐりころころ 青木存義
昼の夢 高安月郊
隅田川 小松耕輔
お玉じゃくし 吉丸一昌
羽衣 葛原しげる
あられ
てふてふ
たんぽぽさいた
鬼が島
とんび
村の道ぶしん
沖の小島 田中末廣
秋の海 西條八十
こなゆき 野口雨情
われら若人 矢野一郎

『全人』第119号ならびに『全人教育』第149号に、梁田を知る人たちの梁田を偲ぶ文章が掲載されています。そのいくつかを抜粋して紹介します。

「最初と最後」葛原しげる(当時:童謡作家・広島県至誠女子高校校長)

神田錦町にあった日本女子音楽学校の講師仲間の沢崎定之君が、声楽家なので、作曲を頼んで、一、二曲出来た頃、「私より、もっと適任者がいるんですよ。最近も、名曲を作って、大変好評ですから・・・梁田貞君っていうんですよ」ときいた。その名曲は、「城ケ島の雨」であったか、「昼の夢」であったか、それとも「隅田川」であったか、のち、他の作曲家からも、音楽学校在学中の作曲で大変善い曲だときいて、沢崎君に取次いで貰ったのが、何であったか、その作曲が出来たのを、持参して、手狭の玄関に立ったままで、姿勢を正して、小声ながら、丁寧に歌ってきかして、改めて会釈して、「これで、宜しいでしょうか」と、極めて、謹厳であった。
この謹厳さは後々までも、曲については勿論、歌詞の字脚についても、語のアクセントについても、少しも変わらなかったので、大正初期から毎週一回、小松耕輔君と三人、会合しては、児童の唄の研究創作をよくも続けた十数年間、私自ら、ずい分勉強さして貰った。

「サンタルチヤの歌」鯵坂二夫(当時:京都大学教授)

先生はピアノの前にゆっくりと坐られ、やや騒がしい一年生をやさしく見廻わして、さらさらと流れるように、その指をピアノのキイにおとされた。その曲が終るか終らないかに、だれかが、「先生、歌って下さい」と言った。私は礼儀を知らない奴だと思った。事実、それまで私がいた中学では、先生に対してこのような態度をとることはたしかに礼を失した行動と解されていたから。しかし、先生はそのままうけとめて、直ぐにお歌いになった。私はそれが何の歌であったか記憶していない。ただ今もなお、私の耳に残る、あのすばらしい先生の声であった。
それが終ると、今度は先生の方から、「君たちも歌ったら」と言われた。「何を歌おう」「サンタルチヤ」このような言葉が交わされた。

「昼の夢-梁田貞君を憶う-」牛山充(当時:音楽舞踊評論家・東京フィルハーモニー交響楽団理事)

梁田君は札幌の生れで民謡が非常に得意だったので自慢ののどを聞かせては追分の妙味、江差、松前の特徴などを説明して呉れたりし、また尺八にも堪能であった。
この旋律的長所、殊に民謡風の持味が梁田君独特のもので、本科3年の時歌詞なしに抒情味豊かな曲を書いて私にオルガンで聞かせて呉れたのが非常によく出来ていたので、誰かにぜひ歌詞をつけて貰うようすすめ、小松耕輔氏に依頼してあの処女作の名曲「隅田川」(「あれこそまさしく我が子の声」で始まる歌曲)が出来上った。

「梁田貞先生の思い出」奥田良三(当時:声楽家・横浜国立大学教授)

梁田貞先生のお名前を初めて存じ上げたのは、今から四十何年か前、私の中学一、二年の頃でした。その頃、私は音楽に夢中になっていましたので、ある日、郷里札幌の富貴堂という楽器屋で、梁田先生の「昼の夢」という楽譜を発見した時は嬉しくて嬉しくて飛んで帰って、一生懸命に勉強したものでした。
美しい田辺至先生の画のついた灰色の模造紙の表紙は、今でも懐しく思い出されます。「隅田川」という梁田先生の大曲を夜明しで写譜をしたのもその頃です。
先生の作曲はどんな曲を見ても、本当に暖かい心に沁る何かを感じさせられて、歌えば歌う程、味の出る曲ばかりです。

「梁田貞を憶う」小松耕輔(当時:音楽評論・作曲家、東邦音楽短大教授)

彼(梁田貞)は東京音楽学校本科声楽科の出身で、中山晋平と同級であった。私より四、五年後れて卒業した。作曲は在学中より上手であった。私は彼の卒業後直き彼と親しくなった。間もなく葛原しげると彼と私と三人で『大正幼年唱歌』十二巻を著し目黒書店より出版した。葛原しげるは全部歌詞を書き彼と私とは作曲をした。ひきつづいて『大正少年唱歌』十二巻を出した。また、つづいて『昭和幼年唱歌』四冊、『昭和少年唱歌』四冊を出した。いずれも評判がよかった。その中では彼の作曲した「羽衣」「スイートピー」「村の道ぶしん」「とんび」などは最も喜ばれた。
彼の代表作として知られている「城ケ島の雨」は北原白秋の作詩で、若い頃島村抱月の芸術座のために作曲したものであった。彼は北海道の生れで「追分」がうまかった。また、琵琶謡がうまかった。こういうふうなメロディーから自然に生れた節を、西洋音楽によって新しく作曲したものであった。

「梁田さんの思い出」真篠俊雄(当時:玉川大学教授)

梁田さんは音楽者仲間では稀れに見る人格者で、間違ったことが大嫌いで、筋の通らないことはたれかれの差別なく先づ御自身で姿勢を改めてあの厳格なお顔で懇々とさとされたことも思い出の一つです。それに珍しいほどの潔癖家で、御家庭では手、顏、足等と別々に洗面器数個を用いられ、成城に御住居を新築された時などは工事が完成されても家を変えるには月が悪いといって半年もそのままにして置き、お引越しの時などは方角がわるいといって本郷からわざわざ横浜を遠廻りして南の方から成城に移って来たような面もお持ちでした。
上野では研究科は普通二カ年ですませるのが普通なのに、声楽、作曲と五カ年も在学して研究を続けた篤学の士でもあった。

「梁田先生を憶う」矢野一郎(当時:第一生命社長)

梁田先生は音楽のために生れたような方だった。不世出の天才でもあったが、華かな独唱家としての途を捨てて、その全生涯を、日本人が音楽を身につけるために捧げられた尊い音楽教育家であった。
私がはじめて先生から洋楽の楽しさを教えられたのは大正元年だったが、その頃から晩年病臥されるまでの間に、親しく教えられた門下生の数は悠に二万人を超えていると思う。
(略)
五十年も前に世界の民族の持つ歌を原語で教えたのは、梁田先生の偉大な創意であった。カルーソーのレコードなどを聞かせて下さったのも先生だった。今日、誰もが歌う英語の歌などを聞く度に、梁田先生が蒔かれた種が、今は全国に実ったと思うと誠に感慨無量である。

参考文献
  • 小原國芳著『小原國芳全集 29巻』 玉川大学出版部 1963年
  • 小原國芳「私の音楽教育八十五年」(迫新市郎著『私の音楽教育八十五年-創造性を高める-』 玉川大学出版部 1971年 に所収)
  • 岩崎呉夫著『音楽の師 梁田貞』 東京音楽社 1977年
  • 小原國芳監修『全人』第119号 玉川大学出版部 1959年
  • 小原國芳監修『全人教育』第149号 玉川大学出版部 1962年
  • 小原國芳監修『全人教育』第226号 玉川大学出版部 1968年
  • 小原哲郎監修『全人教育』第447号 玉川大学出版部 1985年
  • 玉川大学編集部編『梁田貞名曲集』 玉川大学出版部 1961年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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