玉川豆知識 No.97

学生たちの労作で完成した松下村塾と咸宜園の模築

学生たちの労作により、1966(昭和41)年11月3日に「松下村塾」の模築、1969(昭和44)年7月8日に「咸宜園」の模築が完成しました。

本学キャンパスにある松下村塾と咸宜園エリアへの入口

1.玉川の塾教育

玉川学園創設にあたって、塾教育は大きな目的の一つでした。1948(昭和23)年発行の『玉川塾の教育』で、創立者小原國芳は次のように述べています。「私は、何だか、教育というものは八時以前と三時以後にホンモノがあるような気がします。・・・(略)・・・塾教育は実に、心から心への教育即ち人格から人格への教育です。言い換ると、之は内面からの教育です。かかる教育を受けたものの社会は互に理解を深くし、同情を厚くすることが容易だと思います。故に塾教育こそホントの社会改造の道だとも首肯されます。」
また、鰺坂二夫著『小原教育』には、「まことに教育に於けるホンモノの実現への夢が、先生を動かして玉川塾が生れた」と記述されています。

早朝の聖山礼拝
塾の部屋での懇談

さらに小原哲郎編『全人教育の手がかり』の「塾の教育」(米山弘著)には、「先生が以上のように塾について言われるとき、そこには必ずあの広瀬淡窓の『桂林荘雑詠示諸生』の詩と共に思い出される咸宜園の塾や、また吉田松陰の松下村塾における塾生の切磋琢磨の勉学のイメージが強く念頭にあったに違いない。日本の伝統的教育機関としての寺子屋や多様な形態の私塾の学業と生活の姿もきっと予想しておられたことと思うのである」と記されています。

萩城下東郊松本村(現・山口県萩市)に開設された松下村塾
豊後国日田(現・大分県日田市)に開設された咸宜園

1929(昭和4)年4月8日の玉川学園開校式の翌日から塾生活が開始されました。生徒たちは先生方の家に分宿。先生方の家は教室であり、宿舎でもあったのです。同年4月24日付の東京日日新聞(現在の毎日新聞)は、「師と門生とが起居學修を共にする美はしい敎育道場! つまり寺子屋の精神が近代的な樣式をかりてここに再興」と玉川学園の誕生を紹介しました。

青野塾
怡東塾の平面図

2.松下村塾の模築

松下村塾は、江戸末期の1842(天保13)年に幕末の志士として知られる吉田松陰(1830年~1859年)の叔父玉木文之進が長州萩城下東郊松本村(現・山口県萩市)に開設した私塾です。子供時代にここで学んだ松陰が1856(安政3)年から主宰となってこれを引き継ぎ、塾生に「勉強はただ知識を得るためのものではなく、それを社会に役立てなくてはならない」と、生きた学問の重要性を説きました。それに感銘した優秀な人材が集まり、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など明治維新に活躍した多くの逸材を輩出。2015(平成27)年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産の文化遺産に登録されました。

1966年に玉川の丘に模築された松下村塾

その松下村塾の模築を行うことになりました。経緯は次の通りです。1957(昭和32)年の通信教育部の夏期スクーリングにおいて、萩出身の高井泉農学部教授から「2年後は玉川学園創立30周年、吉田松陰没後100年を迎える」といった話がありました。それを聞き知った山口県出身の学生たちから学園内に松下村塾の模築を造りたいという要望がありました。学校側はそれを許可し、建設予定地として三角点(経塚山)の雑木林裏手の場所を指定。8月28日には松永文部大臣のスクーリング視察にあわせて地鎮祭が行われました。そして、学生たちは草刈り等の労作を開始。しかし、限られた期間しか労作を行えないため、建設予定地は1年後には草刈り前の状態に戻ってしまいます。それを繰り返すうちに、いつしか「松下村塾」の模築の構想は立ち消えになってしまったようです。

松下村塾建設予定地
(三角点の雑木林の裏手)


松下村塾建設地鎮祭


松下村塾建設予定地の地固め

1966(昭和41)年、大学塾の舎監であった沖本陽一郎農学部教授より、「小原國芳先生が松下村塾の模築の建設を希望されている」と塾生に対して話がありました。それを受け、塾生2名と工芸部職員2名が萩の松下村塾を訪問し、約1週間かけて建物の採寸等を行いました。そして、いよいよ模築のための工事が始まりました。建設される場所は聖山の中腹。塾生が中心となって、整地や資材運搬を行いました。一部に通学生が加わっていたかもしれません。大工仕事等は工芸部職員が担当。同年の夏から着工して10月末に完成。11月3日にお披露目となりました。なお、この時に使用した材木は萩周辺のものとのことです。

松下村塾の模築の完成について、小原國芳は『全人教育』第208号で次のように語っています。

模築の「松下村塾」が、とても、ソックリ出来上って居て開校以来の念願が叶えてウレシかったです。聖山の森の中に、とても上品。玉川の名物が一つふえました。いろんな部から利用法を申込まれて居ます。
「このつぎには、「咸宜園塾」です」と、教育科諸君、意気込んで居ます。

模築後、風雨により痛んだ箇所を修理して使用してきましたが、築46年が経過した2011(平成23年)11月から、現在の建築基準法に適合したかたちで建替工事を行いました。建替えにあたり、外観は既存の松下村塾の姿を忠実に再現しましたが、内部については天井を少し高くするなど、現在の利用に沿った間取りに若干変更されています。

3.咸宜園の模築

咸宜園は、1817(文化14)年に、江戸時代の儒学者である廣瀬淡窓(1782年~1856年)が豊後国日田(現・大分県日田市)に創立した私塾です。「咸宜」とは、「みなよろし」という意味で、身分を問わず、学を志す全ての人に開放されました。それにより全国から延べ3,000人以上が集まり、ここで学んだと言われています。咸宜園では労作教育、師弟同行、個性尊重などの教育が行われました。

1969年に玉川の丘に模築された咸宜園

玉川教育と通じる廣瀬淡窓の教えを身を以って体得するべく、大学生の有志が咸宜園の模築を計画。大学の許可を得たうえで、大分県日田市に出向き、現地調査を行いました。咸宜園の模築は、現在の場所の松林を切り拓き、地ならしをすることから始められ、約2カ年の労作を経て、1969(昭和44)年7月8日に完成しました。

模築後は、風雨により痛んだ箇所を修理しながら使用してきましたが、築42年が経過した2011(平成23年)11月、現在の建築基準法に適合したかたちで建替工事を行いました。建替えにあたり、外観は既存の咸宜園の姿を忠実に再現しましたが、現在の建築基準法では茅葺屋根が屋根材として認可されないため、現行法規に基づき茅葺屋根に似た色彩の瓦葺きに変更されました。内部については、現在の利用に沿った間取りに若干変更されています。

関連サイト

参考文献

  • 塾編集委員会編『玉川学園 塾の歩み五十五年』 玉川大学・玉川学園女子短期大学塾 1985年
  • 小原國芳著『玉川塾の教育』 玉川大学出版部 1948年
  • 小原哲郎編『全人教育の手がかり』 玉川大学出版部 1985年
  • 鰺坂二夫著『小原教育』 玉川大学出版部 1959年
  • 米山弘「塾の教育」(小原哲郎編『全人教育の手がかり』 玉川大学出版部 1985年 に所収)
  • 「玉川松下村塾建設に取り組んだこと」(『全人教育の開拓者 小原國芳先生』 山口県玉川会 1984年 に所収)
  • 小原國芳監修『全人』第110号 玉川大学出版部 1958年
  • 小原國芳監修『全人教育』 玉川大学出版部
        第208号(1966年)、第209号(1967年)、第220号(1967年)
  • 小原芳明監修『全人』第764号 玉川大学出版部 2012年
  • 白柳弘幸「故きを温ねて」(『全人』第652号 玉川大学出版部 2002年 に所収)
  • 白柳弘幸「玉川の丘めぐり」(『全人』第742号 玉川大学出版部 2010年 に所収)
  • 「学園近況」(『玉川同窓会会報』第10号 玉川同窓会 1957年 に所収)
  • 「学園の近況」(『玉川同窓会会報』第26号 玉川同窓会 1967年 に所収)
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年