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玉川豆知識 No.99

自動販売機の毎月の売り上げを野口英世アフリカ賞基金に寄付

1961(昭和36)年、玉川学園はメキシコのメリダ市にあるメリダ大学(現在のユカタン州立自治大学)付属のオーラン病院に野口英世の銅像を贈呈。そのような関係もあり、2018(平成30)年より玉川学園では、キャンパス内にある2台の自動販売機の毎月の売り上げを野口英世アフリカ賞基金に寄付しています。

1.キャンパス内にある2台の自動販売機の毎月の売り上げを野口英世アフリカ賞基金に寄付

玉川学園では、2018(平成30)年から、玉川学園キャンパスに設置されている2台の自動販売機の毎月の売り上げを野口英世アフリカ賞基金に寄付しています。該当する自動販売機は、大学8号館の中庭と、University Concert Hall 2016の前の広場にある自動販売機です。自動販売機には、写真のとおり、野口英世アフリカ賞に関するポスターが貼られています。

野口英世アフリカ賞に関するポスター
University Concert Hall 2016の自動販売機
大学8号館の自動販売機

野口英世は細菌学者として、黄熱病や梅毒などの研究を進め、ノーベル賞において生理学・医学の分野で3度候補に挙がりました。正五位・勲二等旭日重光章受章。また、医学博士(京都大学)と理学博士(東京大学)の学位を有し、ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐の称号を得ています。

1899~1900年中国のニーチャン、1900~1903年アメリカのフィラデルフィア、1903~1904年デンマークのコペンハーゲン、1904年~1915年ニューヨーク(ロックフェラー医学研究所の研究員)、1915年一時帰国、1918年~エクアドル共和国のグアヤキル、さらにはメキシコや南米のペルー、ブラジルなど、1927年~英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラと、世界各地を回り研究を続けてきた野口英世は、アクラにて黄熱病の研究中、自らも黄熱病にかかり、1928(昭和3)年5月21日に51歳で亡くなりました。そしてアメリカのニューヨークのウッドローン墓地に埋葬されました。

日本政府は、2006(平成18)年5月の小泉総理大臣(当時)のアフリカ訪問をきっかけに、野口英世博士の功績に改めて注目し、感染症が蔓延するアフリカの医学研究や医療活動の分野で卓越した業績をあげた人たちを表彰する「野口英世アフリカ賞」を創設し、内閣府に野口英世アフリカ省担当室を設置。「野口英世アフリカ賞」のための基金が野口英世アフリカ賞基金です。2019年4月25日に第3回野口英世アフリカ賞が発表されました。医学研究分野ではコンゴ民主共和国のタムフム博士が、医療活動分野ではウガンダ共和国のオマスワ博士がそれぞれ受賞しました。

2.野口英世と玉川学園

1960(昭和35)年、玉川学園の創立者である小原國芳は、メキシコで行われた第3回国際大学協会総会に、日本私立大学の代表として出席。会議後、教育事情視察のためメキシコ各地を歴訪。ユカタン半島のメリダ市にあるメリダ大学(現在のユカタン州立自治大学)医学部付属のオーラン病院に立ち寄り、同所で医学の研究を行った野口英世の研究室を見学。その時に野口英世から直接指導を受けた同大教授たちから「博士の遺徳を永遠に顕彰したい。そのために野口英世博士の記念像がほしい」という希望を聞いた國芳は銅像を贈呈する約束を彼らと行って帰国しました。

帰国後、國芳からその話を聞いた学生、生徒たちは、小遣いやアルバイト代を集めました。そして礼拝献金などを加えることで約17万円の資金を調達。野口記念会の協力もあり、日本芸術院会員の吉田三郎氏に制作を依頼し、野口英世のブロンズ立像が完成。そして、1961(昭和36)年3月2日、駐日メキシコ大使バーエ氏を玉川の丘に招き、全学園あげての銅像贈呈式を挙行しました。その後、日本の外務省の協力を得て、銅像は無事にメリダ市に運ばれました。

野口英世の銅像の贈呈式

野口英世の像を贈られたメキシコのユカタン州知事より、1961(昭和36)年6月25日の除幕式に小原國芳以下、教職員や学生たちを招待したい、さらには学生たちによる日本文化の紹介を行ってほしい旨、連絡がありました。玉川学園としても微力ではありますが、両国の親善にいささかでも貢献できればと考え、進んでこの招待を受けました。こうして、玉川学園メキシコ親善使節団(団長:小原國芳、教職員7人、研究生5人、大学生9人、高等部生9人、中学部生5人、小学部生4人の計40人からなる)が結成され、6月21日から7月17日まで26日間の親善旅行が計画されました。そして、メキシコに渡った使節団は、当時の駐墨大使も列席する中、オーラン病院の正門中庭で盛大に行われた野口英世像の除幕式のセレモニーに参加。除幕式の前には、メリダ市の歓迎式や市長主催のレセプションも開催されました。除幕式終了後には、学生による日本芸能公演「日本の日」が企画され、一行は日本の歌や演劇、伝統舞踊などを披露しました。

除幕式の模様が『メキシコ親善旅行記』(玉川大学出版部発行)の「除幕式の感激」に次のように記述されています。当時、大学生3年生でこのメキシコ訪問に参加した吉川梢さんが書かれたものです。

野口英世博士の銅像は、オーラン病院の正門と玄関のちょうど中央におかれ、まだ白い布をかぶせてありました。
林駐墨(ちゅうぼく)日本大使を中心に、ユカタン州知事、メリダ市長、病院長、それに小原先生が銅像の正面に立ち、私達がその後にならびました。
いよいよ野口英世博士像除幕式がはじまります。午後一時半、真昼の太陽はやけつくように照りつけますが、緊張しているせいか、今はさほどに感じません。 まずユカタン州知事と、林大使のスペイン語の御挨拶がありました。
そこで病院長の手によって、意外にあっさりと博士像をおおった白布がとりのぞかれました。
学園での贈呈式以来、三カ月ぶりに見る博士像。何だか銅の色も落ち着き、周囲の建物とよく調和して、たいへん立派に見えました。

さらにこの文章の後半には、人種を越え、国境を越えて心と心を結ぶ歌声のことが、次のように記されています。

小原先生のお話が終るとすぐ、迫先生のタクトがさっと動いて、私達は力強く「メキシコ国歌」を歌いだしました。苦心して習いおぼえたスペイン語の国歌を、今メキシコのみなさんにきいていただくのです。
「メヒカーノス アルグリートデゲールラ エルアセロァプレスタイェルブリドーン・・・・・・」
一瞬、周囲の人達は驚いたようにざわめきましたが、すぐにしずかになりました。歌う私達をじっと見つめておられる強い視線を痛いように感じて、間違わないように、立派に・・・・・・みんな、ほんとに一生懸命に歌いました。
終りのくりかえしのところで、迫先生はさっとふりむいて群衆に合図されました。待っていたかのように、人々の声がワーッとひとつになってすごい歌になりました。
この大きな、絶叫するような歌声の中に、私達の声は完全に吸収されました。
日墨両国民の大合唱――革命の歌だというこの国歌は、こういう歌い方がふさわしいようでした。人種をこえ、国境をこえて心と心とを結ぶ歌声――唇をふるわせ泣きながら歌っているお年寄もいました。私達は大きな感動で、涙と汗をいっしょくたにふきながら歌いました。
歌がおわると嵐のような拍手。
突然、太った白髪のお年寄が進み出て大声で「ビーバーハポン」(日本バンザイ)とさけびました。赤く上気した頬に涙を浮べてのこの音頭に、大きな歓呼がこたえました。
「ビーバーハポン」「ビーバーハポン」
日本代表小原先生はまけずに「ビーバーメヒコ」(メキシコバンザイ)と叫ばれました。これも大きな歓呼となってひびきわたりました。
その時、すかさず後方から日本国歌のブラスバンド吹奏がはじまりました。メヒコ国歌にまけぬ堂々としたテンポのりっぱな演奏。町の人々によるブラスバンドのようでしたが、私達のメヒコ国歌と同じく、きっとずいぶん練習してくださったのでしょう。私達も思いきり大声で誇らかな気持で歌いました。

関連サイト

参考文献

  • 玉川学園編『メキシコ親善旅行記』 玉川大学出版部 1961年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年

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