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デンマーク体操と玉川学園

2017.06.02

玉川学園が創立以来取り組んできたデンマーク体操

1.デンマーク体操とは

デンマーク体操とは、デンマーク人であるニルス・ブックによって確立された体操で、青少年の体の基礎的改造、矯正、発育促進を目的として考案された民衆体操のこと。人間の呼吸に合わせたリズミカルな動きを取り入れた躍動感あふれる体操で、筋力の強化だけでなく柔軟性や巧緻性(機敏性)も向上させるのが特徴である。スウェーデン体操の精神を受け継ぎながらも、それまでの体操を改革。現在朝の体操として親しまれているラジオ体操は、リズミカルなデンマーク体操の影響を受けてつくられたといわれている。

2.デンマーク体操と玉川学園

玉川学園が創立以来取り組んできたデンマーク体操は、小原國芳とニルス・ブックとの出会いによって日本に紹介された。ブックは、1912(大正1)年のスウェーデン・ストックホルムのオリンピックでデンマーク体操団を指揮するなど、体操家として活躍。「デンマーク体操(基本体操)」を考案し、1920(大正9)年に「デンマーク・オレロップ国民高等体操学校(現・オレロップ体操アカデミー)」を創設した。

ニルス・ブック

そもそも、國芳がブックの存在を知ったのは、1922(大正11)年からの3年間にアメリカ、イギリス、フランス、スウェーデン、デンマーク等を巡り世界の体育を調査・研究してきた体育教師、三橋喜久雄のひと言がきっかけだった。1927(昭和2)年、「現在世界の体育・体操家のなかで一番偉いのは誰なのか」と尋ねた國芳に対し、三橋は即座に「それはデンマークのニルス・ブック氏です」と答え、オレロップ国民高等体操学校で行われていたデンマーク体操の魅力を熱く語った。三橋は当時、玉川学園と成城学園で体操の指導を行っていた。

かねがね、「体操とは、それを行う人も見る人も感動するような芸術性がなくてはいけない」と感じていた三橋は、デンマークに留学していた当時、デンマーク体操を目の当たりにし、そこに自身が探究していた真の体育像を見いだしていた。三橋の話を聞いた國芳は、ブックの体操を教育に取り入れるべきだと直感する。それまでも、日本の教育現場で体操は行われていたものの、明治、大正時代より「一、二、三、四」の号令のもと、規律正しく行うスウェーデン式体操が中心だった。國芳はこのスウェーデン式体操に対し、堅苦しさを覚え、物足りなさを感じていた。事実、スウェーデン体操は、P・H・リングが考えた医療をもとにした生理学や解剖学に立脚した理詰めで型苦しさを伴うものであった。

小原國芳夫妻のデンマーク訪問
ニルス・ブックと小原國芳夫妻

しかし、折しもそのころは玉川学園の創立期と重なっていたため、國芳が行動を起こしたのはそれから4年後の1931(昭和6)年であった。妻の信とともに欧州教育行脚を敢行した際に、1929(昭和4)年から2年間ブックの体操学校に留学していた玉川学園の体育教師である斉藤由理男を訪ねた。このオレロップ国民高等体育学校の訪問で、國芳は自身もデンマーク体操を体験した。後年、國芳はそのときの様子を次のように語っている。
「『これだ!』と心臓に脳裏に強く刻み付けました。生理的で、科学的で、しかも芸術的で、リズミカルで、更に、鍛練的で、巧緻的で、調和的で!」
常々、「日本の青年には、よい頭(Head)、よい手腕(Hand)、美しい心情(Heart)に加え、よい健康(Health)が必要である」と語ってきた國芳は、デンマーク体操は理想を具現化させるために不可欠な要素であると直感し、ブックに「体操団を引率して、日本に来てくれるよう」懇願した。その結果、1928(昭和3)年9月にブック一行11名の来日が決定した。

ニルス・ブックの来日に対して、スウェーデン体操を推進する文部省(現在の文部科学省)はいい顔をしなかった。すでに2年前にスウェーデン体操をもとに「学校体操要目」を作成していたため、必要を感じなかったのだ。そしてこの時のブック一行の来日は延期となった。しかし、國芳はそれでも、ブック一行の招聘をあきらめなかった。「学校体操」として受け入れられないのであれば、「社会体操」として推進すると決意を新たにした。ブック側からも「日本にも私の体操研究所がほしい」という申し出があったため、國芳は創立まもない玉川学園に、さっそく体育館とグラウンドを竣工。オレロップ国民高等体操学校の兄弟学校にふさわしい施設を整備した。この熱意がブックを動かし、1931(昭和6)年9月7日、ニルス・ブック体操団の一行26人(団長以下体操手男子13名、女子12名)が来日。実は、國芳が最初に招聘を依頼した時は体操手6名、具体的に来日が決まった時点では一行11名、さらに一行17名の来日に変更となり、その旅費や諸経費はこちらで負担することとなっていた。しかし、最終的には一行26名の来日となった。旅費の不足分はデンマーク側で負担してくれた。そして、来日した一行は下関に到着した後、翌9月8日に東京へやって来た。

来日したニルス・ブック一行

もともとは玉川学園の児童・生徒の健康教育のために招聘された体操団であったが、ブックは全国の青少年の健康促進を目的として、東京をはじめ、福島、秋田、富山、金沢、神戸、大阪、京都、大分、福岡、米子、名古屋、静岡、横浜など日本全国40数カ所、足かけ48日間にわたって、公演(実演)と講演、講習を行った。9月13日には、玉川学園で実演が行われた。この日はグラウンドと体育館開き、礼拝堂パイプオルガン弾き初めなど多彩な行事も開催されていた。なお、公演に際しては、映画の撮影も行われた。また、当日、玉川学園は「オレロップ国民高等体操学校東洋分校」として承認された。以後、オレロップから体操教師が派遣されて来たり、毎年体操講習会が開催されたりし、それをきっかけにデンマーク体操が日本中に拡がって行った。

玉川学園グラウンドでの歓迎デモンストレーション(9月13日)

実演や講演に際しては、文部省から、実演や講演時に入場料を徴収してはならない、学校体操ではなく社会体操として行うことといった条件を付けられていた。そんな状況の中、デンマーク体操を独自に取り入れた「海軍体操」が全海軍に普及。海軍のほかにも、航空隊や商船学校、鉄道省が積極的にデンマーク体操を取り入れ、「航空体操」「国鉄体操」「職場体操」が作られた。さらに、1932(昭和7)年には全日本体操連盟によって創案された「ラジオ体操」(第二体操)にも、デンマーク体操の原型が取り入れられた。デンマーク体操はこうして、さまざまに形を変えながら普及。全国津々浦々、日本国民の健康づくりに貢献してきたといえるだろう。

日比谷公会堂でのデモンストレーション(9月12日)

3.オレロップ国民高等体操学校東洋分校としてデンマーク体操を普及

その後も、本学は「オレロップ国民高等体操学校東洋分校」として、デンマーク体操の講習会を頻繁に行い、体育教員をデンマークに派遣、体操の研究・普及に尽力した。これらの教員の指導の下で、毎年の本学の体育祭では、「徒手体操」や「転回運動」、さらに「こん棒体操」「旗体操」「ボール体操」「リング体操」を中心に、デンマーク体操の発表が行われている。また日常的には、球技や水泳などのウォーミングアップのなかにデンマーク体操が取り入れられている。

また、オレロップ体操アカデミーでは、体操を修得した者に対し、OD章(体操学校のある地名Ollerupの頭文字と、デンマーク語で「社会に奉仕する人」の意味でDelingsfrereの頭文字Dをとったもの)を授与しているが、オレロップは本学に対し、OD章の授与権も認めており、東洋分校が授与するOD章にはOとDのアルファベッドの間に東洋分校の所在する玉川学園の頭文字Tが入れられた「OTD章」が用いられている。

4.ニルス・ブック70回誕生記念祭

1950(昭和25)年6月18日に、「ニルス・ブック70回誕生記念祭」を玉川学園で開催。記念祝賀会、記念芸能発表会、デンマーク研究展、デンマーク文化講演会など、玉川学園挙げての行事となった。記念祝賀会は、駐日デンマーク公使夫妻をはじめ数百名の来賓を招いて午前11時より行われた。会場の礼拝堂には、日丁両国の国旗の間にニルス・ブックの大きな肖像画、そして「外で失ったものを、内でとりかえせ」というデンマーク国の父と呼ばれたグルンドウィのスローガンが掲げられていた。午前の祝賀会に引き続き、午後は一部と二部に分けて記念芸能発表会を開催した。一部は体育館にて、基本体操、整美体操、複合体操、巧緻体操、棍棒体操、二部は礼拝堂にて、英語劇「ハムレット」、舞踊「春の牧場」、音楽「デンマーク・アメリカ・イギリス・ドイツ・日本の民謡、ハレルヤコーラス」、アンデルセン劇「眠りの精」の発表が行われた。この催しは単なる記念祭、あるいは玉川体操(デンマーク体操)のみの発表会ではなく、小学1年生から大学生に至るまで全学園が2カ月半の期間をかけ、デンマーク文化研究という主題に取り組んだ総合学習の発表の場であった。

5.オレロップ国民高等体操学校創立50周年祭に参加

1970(昭和45)年7月10日、体育海外研修団32名は、オレロップ高等体操学校創立50周年式典に参加のためデンマークへ出発。研修団は7月18日・19日の式典に参加し、8月9日に帰国した。

玉川大学生の演技
玉川大学生の演技
入場する玉川大学生

6.デンマーク・オレロップ体操チームを再び招聘

三木首相訪問
モンテンセン校長

青少年の心身の健全なる発達を願って、1975(昭和50)年10月3日より31日までの約1カ月間にわたり、デンマーク体操チームを日本に招聘。招聘したのは、デンマーク・オレロップ体操チーム招聘委員会で、会長は当時玉川学園総長であった小原國芳、委員長は当時玉川大学学長であった小原哲郎、実行委員会委員長は当時玉川大学教授だった橋本道であった。デンマーク体操チーム一行は、羽田に到着後、午後に三木首相を表敬訪問、翌日はNHKテレビ「スタジオ102」に出演。基本体操の実演、団長であるアーネ M.モンテンセン校長と会長である國芳の話が12分にわたって放映された。

午後には三越日本橋本店野外音楽劇場屋上にて一般公演と講習会を開催。どちらも約300名が参加。夕刻よりホテルニューオータニにて、文部大臣主催の歓迎レセプションに出席。以降、公演や講習会が玉川学園をはじめ、学習院、日本体育大学、東京農業大学、東海大学、国立競技場第2体育館で行われた。その間、フジテレビ「小川宏ショー」に出演したり、デンマーク大使公邸でのデンマーク大使歓迎レセプションに参加したりした。「小川宏ショー」では、リズム体操・手具体操・基本体操などの実演、モンテンセン団長と小原哲郎委員長の説明が15分間にわたって全国27局をネットに放映された。さらに東京を離れ、京都、大阪、福岡、熊本、鹿児島、名古屋などでも公演や講習会を開催。10月29日には、モンテンセン校長に対して、勲三等瑞宝章が永井道雄文部大臣から授与された。デンマーク体操チーム一行はその夜、ホテルニォーオータニで開催された招聘委員会会長主催の歓送レセプションに出席。そして、31日に羽田より日本を後にした。

玉川学園体育祭。オレロップ体操チームも参加しての開会式(10月12日)

2011(平成23)年には、オレロップ国民高等体操学校の「東洋分校」80周年を記念して、本学記念体育館前に、「ニルス・ブック像」が建立された。

参考文献

  • 小原國芳著『私の体操史』(橋本道著『基本体操』玉川大学出版部 1970年 所収)
  • 三橋文子著『玉川学園とデンマーク体操』(小原芳明編『全人』No.627 玉川大学出版部 2002年 所収)
  • 石橋哲成著『小原國芳の健康教育とデンマーク体操 -ニルス・ブック一行の招聘から80年目にあたりて-』(『玉川学園・玉川大学 体育・スポーツ科学研究紀要第12号』 玉川大学学術研究所 2012年 所収)
  • 『デンマーク・オレロップ国民高等体操学校東洋分校 設立80周年記念 ニルス・ブック像 除幕式』パンフレット 2011年
  • 『玉川學園概況』1992年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史写真編』 玉川学園 1980年
  • 『デンマーク・オレロップ体操チーム招聘報告書』 デンマーク・オレロップ体操チーム招聘委員会 1976年
  • 小原國芳監修『全人』 玉川大学出版部 1950年
  • 小原國芳監修『全人教育』第253号 玉川大学出版部 1970年
  • 小原國芳監修『全人教育』第255号 玉川大学出版部 1970年
  • 小原國芳監修『全人教育』第316号 玉川大学出版部 1975年
  • 小原芳明監修『全人』第759号 玉川大学出版部 2012年

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