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産学協同による新工業教育

2019.04.08

1939(昭和14)年、川崎にある日本火工株式会社と提携し、学校での教育と工場での実習を数か月ごとに交代で行う、「学」と「術」の両立を図る新工業教育が玉川の丘で実施された。

1. 新工業教育の始まり

玉川学園創立者小原國芳は、学問と技術の両方が備わっている人間を育成したいと考えていた。そのことが、『全人』昭和14年11月号(玉川学園出版部発行)の巻頭に「工業敎育における大膽なる一研究」(小原國芳)と題して次のように記されている。

玉川創立以来、いろいろと大膽(だいたん)なる勞作をやらせて見て、シミジミと敎育は何としても、作らせ、爲(な)させ、工夫させ、體驗(たいけん)させ、勞(いとな)ましめ、味はせ、試みさせ、行はせる・・・ことだ! と有り難くも痛感するのです。

1939(昭和14)年10月30日、玉川の丘で新工業教育がスタート。新工業教育は、学校教育(学:学問)と工場実習(術:技術)を数か月交代で行い、日本の工業界が必要としている学問と技術の両方を兼ね備えた人材を育成するというもので、当時としては大胆な教育計画であった。その教育は、労作教育であり、体得の教育であり、知行合一の教育であり、理論と実際の融合の教育であり、心身一如の教育であり、そして学問と技術の一致を図る教育であった。工場実習先として提携したのは日本火工株式会社(現在の日本冶金工業株式会社)。川崎にある日本火工川崎工場で実習が行われた。

2. 計画の実行

五部生が工場での第1回実習を終了
(1940(昭和15)年4月6日)

玉川学園はこの計画を実行するにあたり、参加生徒の募集を積極的に展開し、新計画実施のための体制整備を意欲的に行った。募集の文面に「自活しながら勉強せんとする少年たちのために」とあるように、この教育計画の対象の主体は給費生であった。給費生の通称は五部生。当時、玉川の丘では、通学生を一部生、塾生を二部生というように呼んでいた。

時あたかも玉川学園創立10周年。1939(昭和14)年9月、全国から募集に応じて集まった小学校高等科(現在の中学2年生に相当)卒業生40数名は全員が入塾。翌10月、第1回の実習生40数名が日本火工株式会社の工場で実習を開始した。

3. 工場実習

工場実習を行う生徒たちの一日は、午前5時半の起床から始まる。週番の声で起床し、屋外に出て、宮城(きゅうじょう)を遙拝(ようはい)し、讃美歌を歌い、体操を行う。その後、工場へ行き、そこで朝食。そして作業服に着替えて工場での仕事に従事する。仕事が終わると風呂に入り、宿舎に戻る。午後7時から8時半までは自習時間。こうして一日が終わる。

『全人』平成28年2月号(玉川学園出版部発行)の「故きを温ねて」に次のような記述がある。

年度末の自由研究発表会には、五部生も参加し、「ニッケル及びクローム分析法」「金屬(きんぞく)及び合金の一般的性質」などを発表した。それは小原の目指した学問と技術が揃った自由研究であったと言える。発表した生徒は「僕たちが今學んでいることが唯の棒暗記でなく、生きた學問に生きた實際でなければいけない」と自信を持って力強く述べている。主体的な学びがあったと言えよう。

4. 回顧・新工業教育

『<記念誌「玉川の眼玉」>回顧・新工業教育特集』

1985(昭和60)年6月に玉川の卒業生で組織される玉川学園ファイブ・クラブが編集・発行した『<記念誌「玉川の眼玉」>回顧・新工業教育特集』に、卒業生の座談会の記録として次のような記述がある。

われわれは昭和14年、新工業教育の旗印のもとに、小原先生の呼びかけに応じ玉川の丘に参集した。以後、毎年これらの少年たちが仂きながら学ぶという労作教育の尖兵としての役割りを果し、文字通り草創期の玉川塾の、目玉として中枢機能の重要ポジションにそれぞれの活躍を続け、一方では川崎工場実習という産学合同計画の貴重な試みにも敢えて挑戦しその役目を全うした。
この間において、それぞれ中学、専門部また工専、大学とその学習・学問のジャンルにも挑んでゆくという、二重の学生生活にもよく耐えて、大半の仲間が丘を巣立って行った。

東久邇宮殿下が来園

本学学生の実習期間中にたまたま工場を視察に来られた東久邇宮殿下が、生徒のまじめな作業態度をご覧になり、是非玉川学園を視察したいということになった。そして、1940(昭和15)年10月24日に、東久邇宮殿下が玉川学園にお越しになられた。

5. 戦争による計画の終結

新工業教育としての産学協同の教育計画は4年半続いたが、戦争という大きな壁の前にはどうすることもできず、残念な思いの中、終結することとなった。しかし、当時としては大胆な教育計画であり、新教育の歴史の中に残る教育実践であった。

参考文献

  • 小原國芳監修『全人』昭和14年11月号 玉川学園出版部 1939年
  • 小原國芳監修『全人』昭和15年2月号 玉川学園出版部 1940年
  • 小原國芳監修『全人』昭和16年6月号 玉川学園出版部 1941年
  • 白柳弘幸「故きを温ねて」(『全人』第802号 玉川大学出版部 2016年 に所収)
  • 『<記念誌「玉川の眼玉」>回顧・新工業教育特集』 玉川学園ファイブ・クラブ 1985年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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