玉川豆知識 No.95

東久邇宮殿下と小原國芳

1939(昭和14)年、工場実習での玉川学園専門部の生徒のまじめな作業態度が、工場を視察されました東久邇宮殿下のお目にとまり、玉川学園の視察につながりました。そして、小原國芳のもと設立された興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の創設に、東久邇宮殿下は尽力されていました。

1.東久邇宮(ひがしくにのみや)殿下の玉川学園へのご視察

1939(昭和14)年、学校と職場を結んだ産学協同の新しい試みの新工業教育が玉川学園専門部の中で実践され、川崎にある日本火工株式会社の工場で実習が行われました。その実習での生徒のまじめな作業態度が、工場を視察されました東久邇宮殿下のお目にとまり、それが玉川学園へのご視察のきっかけとなりました。そして、1940(昭和15)年10月24日に、東久邇宮殿下が来園されました。

午前10時10分に玉川学園の講堂(現在の礼拝堂)の前にお着つきになられた東久邇宮殿下は、お客の間(現在の小原記念館のお客の間)での御小憩の後、小原國芳学園長からの20分にわたる玉川塾の教育目標や各部教育の実際、各研究機関等についての説明をお聞きになられました。その後、本部に移動され、編輯室と教育研究所を視察。世界の新教育関係資料等をご覧になられました。続いて、専門部の自学自習、出版部の労作、ホームスパン作業室の作業、図書室での読書、女子塾の薪割作業、印刷部の作業を視察され小学部へ移動。小学部では各教科の授業をご覧になられました。その後、経塚山(三角点)、中学部、体育館と廻られ、棍棒体操、玉川体操の実演や雨中での教練等を見られ、工芸館経由でお客の間に戻られました。

東久邇宮殿下、学園内視察

昼食後、東久邇宮殿下は、田中末広教授の「言語と漢字の教育」、斎藤由理男教諭の「体育論」、峰尾訓導の「理科教育論」等の話をお聞きになられ、数々の質問をなされました。ついで、講堂で留学生たちとともに記念写真を撮られた後、岡本敏明教諭の「音楽教育論」の話と合唱をお聞きになられました。そしてお客の間に戻られ、小原國芳学園長の「教育論」を30分にわたってお聞きになり、予定時間を超えた午後4時にお帰りになられました。

東久邇宮殿下の玉川学園へのご視察は、皇族の方として初めての本学への来園となりました。その東久邇宮殿下は、終戦直後の1945(昭和20)8月17日に、敗戦の責任を取って辞職した鈴木貫太郎の後を引き継いで内閣総理大臣に就任。皇族としては初めてのことでした。しかし、長くは続かず、その内閣は組閣から54日後に総辞職しました。そして東久邇宮殿下は、1990(平成2)年に102歳でお亡くなりになられました。

2.興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の設立に尽力

1943年度学生募集ポスター

興亜工業大学(予科3年、本科3年の旧制単科大学。学科は航空工学、冶金、工業経営の3学科、1学年定員160人)は、現在の千葉工業大学の前身として、1942(昭和17)年に小原國芳によって玉川学園内に設立されました。私立の工業単科大学としては、藤原工業大学(現在の慶應義塾大学工学部)に次ぐ、国内で2番目に古い大学です。フランス留学の経験のある東久邇宮殿下は、欧米に遠く及ばないアジア諸国の科学技術力に日頃から危機感を持っており、海軍元帥の永野修身や哲学者の西田幾多郎らと共にこの興亜工業大学の創設に尽力されました。

小原國芳と興亜工業大学第1回生

3.『東久邇宮様をお迎へして』の出版

東久邇宮殿下の来園の様子をまとめた『東久邇宮様をお迎へして』が、1941(昭和16)年11月に玉川学園より発行されました。「恩師先輩の力づけの御言葉」「ありがたきゆかり」「東久邇宮殿下御台臨手記」「玉川塾の教育」「御前講演」「お迎へして(児童、生徒、職員一同)」「先輩友人の祝辞」「御台臨を仰ぎての感激」「皆様への感謝」「献策十ケ条」の10章から構成されています。「東久邇宮殿下御台臨手記」に来園時の様子が詳細にわたって記載されています。

4.写真で見る東久邇宮殿下が視察された場所

出版部の労作
ホームスパーン作業
薪割場での薪割作業
小学部の焼窯室
小学部の自由研究(紙芝居)
小学部の自由研究「満洲研究」
小学部の博物の教室
中学部の理科の授業
中学部の工作室
中学部の工作の授業
中学部地理の授業
中学部生の「第九」の合唱

参考文献

  • 玉川学園編『東久邇宮様をお迎へして』 玉川学園 1941年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年