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学園あげての総合研究「満州研究」「南洋研究」

2021.01.05

1940(昭和15)年4月から8月までの5か月間にわたって「満州研究」、引き続き9月から12月までの間に「南洋研究」というテーマの総合学習として、学園あげての大規模な合同研究が実施された。さらに1950(昭和25)年には小学1年生から大学生に至るまで全学園が約2か月の期間をかけて「デンマーク研究」に取り組んだ。

1.総合研究の意義

教科書は学習の基準を示すものであるが、教科書にたよっていては断片的な教育しかできない。自学を主として生きた教育を実践したい。そのような玉川教育の以前からのねらいに加え、従来の教科を統合する方向が盛り込まれた国民学校案も提示された。そのような背景の中で総合研究が実現。『全人』第91号(玉川学園出版部発行)の「満州を中心とせる綜合学習の実際」の中で長野義一氏が次のように述べている。

初等普通教育において、教科書は学習の基準を示すものであろうが、吾人教育の実際に当たってみる時、何かしら物足らなさを感じる。
 (略)
他律的な学習では魂を育てることは出来ない。断片的な知識では生活に無関係になる。新しい国民学校案が従来の教科を統合して国民科・理数科・芸能科・体錬科・実業科に大別したのも、この各科分離し易い弊から救おうとする意図が多分に盛られていると思う。

2.満州研究

総合研究のテーマとして最初に選んだのが「満州研究」。満州は当時の日本にとって最も関係が深く、そのため研究資料も多いと考えられていた。まずは小原國芳学園長や保護者の方たちから、書籍、写真、絵葉書、ポスター、パンフレットなどの資料を提供してもらう。さらに図書館の協力により関係書籍を集めるとともに、虎の門にあった満州事務局に刊行物の寄贈、あるいは貸出の協力を得た。

また、南満州鉄道株式会社から玉川学園に留学していた重国武雄訓導の案内で、小原哲郎を資料収集のために満州に派遣。現地では大村卓一満鉄総裁の尽力もあり、貴重な研究資料を集めることができた。

こうした資料をもとに「満州研究」は1940(昭和15)年4月から8月までの5か月間にわたって行われたが、実際には9月まで研究は続けられた。また一部の研究発表は、10月24日の東久邇宮殿下来園の際にも実施された。その時のことが、玉川學園編『東久邇宮様をお迎えして』(玉川學園報國團発行)に次のように記されている。

自由研究としての滿洲研究を續けてゐる男女の生徒達が、高い脚立に上つて欄間の壁に、吉林の森林伐採の風景畫に繪筆を振るつてゐるもの、厚紙で敎室の圍りに萬里の長城を築いてゐるもの、滿州に關する參考品の數々等を御感興深げに御覧遊ばされ特に撫順炭坑の擴大描寫圖の前にて「成程かうすればよく解るね。」とお頷き遊ばされる。

中学部の地理の授業

『全人』第819号(玉川大学出版部発行)の「故きを温ねて」には次のように書かれている。

創立者小原國芳の中国大陸訪問は1930(昭和5)年8月の大連等への訪問を皮切りに、数度にわたって行われた。当時の南満州鉄道や満州国文教部からの招聘であった。
1932年3月、満州国が建立した。学内に満州国留学生も在学し、生徒たちにアジアへの関心が高まった。1940年1月から小学部、中学部、女学部で満州総合研究が実施された。
「全学園、二学期にわたる徹底的な満州研究。地理、歴史をはじめ、国語も音楽も、理科も語学も、美術も舞踊も」(『玉川教育』)と、小原は回想する。これらの学習成果のひとつは大連、奉天、新京、哈爾浜、大興安嶺、長白山脈等の大陸の景観を校舎内に再現し、万里の長城を教室の壁面いっぱいに描いたことだ。

教室の壁面に万里の長城を製作

また、「満州研究」の研究の進め方について、『全人教育』第375号(玉川大学出版部発行)に次のように記述されている。

資料の蒐集はすでに労作であったが、ここで改めて各自から学習課題が提出され、学習過程が進行していく。これらは混然としているようであるが、大体の基準は定められている。
〇満州に関する読物の研究は国語学習で行われる。
〇沿革は国史と対照してみて行く。
〇地勢、気候、産業、交通、都邑等は地理や数学で取扱う。
〇満州の動植物及地質鉱物を理科研究室で調べる。
〇特に北満の開拓義勇軍の活動は念入りに研究させる。
などであった。
こうして各自の研究が伸展するとともに、大きく共同発表が討議された。その結果、第一・万里の長城、第二・大連埠頭、第三・満州家屋模型、第四・満州の日用品という四つの製作題目が決定した。
それぞれの題目は、美術、工芸と結びつき、生徒、先生一体の汗の労作として展開されていった。

小学部の自由研究・紙芝居

6月1日から3日の間、国民学校研究発表会では「満洲研究」の学習公開が行われた。特に小学部の「満洲研究」に関連した総合学習に注目が集まった。地理や歴史に留まらず、算数では満洲旅行の日程旅費の計算を扱うなど、各教科で「満洲研究」をテーマに学習が進められた。「満洲研究」によって、満洲に行ってみたいという気運が盛り上がった。

満蒙への皇軍慰問
満蒙への皇軍慰問団

そして満州へ行ってみたいという生徒たちの希望が現実になる。満州、内蒙古訪問である。満蒙への皇軍慰問団は、小原國芳を団長に生徒35名と引率教員で、1940(昭和15)年6月10日から7月25日までの1か月半、各地を巡り、公演を行った。一行は下関から釜山に渡り、大邱、京城といった都市でも公演を行って満洲に入った。公演は、「小原國芳の講演、デンマーク体操・舞踊の実演、合唱」という構成で行われた。日中戦争が拡大する大変な困難が伴う中での公演旅行であった。

3.南洋研究

「満州研究」に引き続いて「南洋研究」が9月17日から始まった。12月までの間、研究が進められ、12月18日の終業式に発表会が行われた。この発表会では、個人の研究発表に加え、南洋に関する創作劇「新日本の図南拓士」などが上演された。

南洋研究

「南洋研究」は、新東亜建設の重要拠点である南洋について、さまざまな角度から研究を行い、南洋に対する知識や関心を深めることが目的で、次のようなさまざまな角度から研究が行われた。南洋の史的研究、地理的研究、国語的研究、理科的研究、そして南洋の数学、美術表現、さらには南洋における修身道徳的問題、軍備などで、このような角度から各々がそれぞれの課題を設定して研究を進めた。

4.総合研究の成果

全学あげての大規模な総合研究は画期的なことで、玉川だからできる教育であったといえよう。『全人教育』第375号には、次のように記されている。

「満州研究」「南洋研究」は昭和一五年という時局を背景に、また、国民学校案の統合的方向を考慮しているとはいえ、玉川教育の本来の姿に根ざし、「必要の原理」と「興味の原理」を結びつけた画期的な教育であったといえよう。また、これらの総合学習は戦後の「デンマーク研究」(昭和二五年)の嚆矢ともなっている。

デンマーク研究
デンマーク研究

関連サイト

参考文献

  • 小原國芳監修『全人』第91号 玉川学園出版部 1940年
  • 小原國芳監修『全人』第92号 玉川学園出版部 1940年
  • 小原國芳監修『全人』第93号 玉川学園出版部 1940年
  • 岡田陽「玉川学園草創期(その6)」(『全人教育』第375号 玉川大学出版部 1979年 に所収)
  • 白柳弘幸「故きを温ねて」(『全人』第819号 玉川大学出版部 2017年 に所収)
  • 玉川學園編『東久邇宮様をお迎えして』 玉川學園報國團 1941年

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